この地に、開拓使のビール醸造所が誕生したのは、明治9年(1876)のことです。
日本初の、日本人の手によるビールづくり。そこには、北海道開拓と、近代国家日本建設にかける夢があり、さまざまなドラマがありました。
開拓使麦酒醸造所の建設・事業責任者となったのが、村橋久成という人物です。
村橋久成は鹿児島生まれのサムライでした。幕末、薩摩藩英国留学生としてイギリスに渡り、ロンドン大学に学びました。
帰国後、箱館戦争で活躍。明治4年、開拓使に入り、おもに農業振興に情熱を傾けました。
北海道の農業振興と、近代的な産業おこし。それが若いころイギリスで近代的な産業を目の当たりにした村橋の夢でした。ビール醸造は、できた農産物を加工し、製品として全国に広く販売する、近代的な産業そのものでした。
村橋の手によって明治の札幌産ビールが誕生し、生産は徐々に軌道にのっていきました。醸造所は次々に増築され、生産量も倍増を重ねていきます。
ところが…。
幕末、明治…、破壊と創造の時代に生きた人たち。そして、開拓使麦酒醸造所誕生の物語をつづります。
「開拓使時代」とは、明治2年(1869)から明治15年(1882)までの13年間をさします。
明治2年は、「北海道」と「開拓使」が誕生した年です。この年5月、箱館戦争が終結し、新政府がやっと本格的に始動しました。7月、長い間「蝦夷地」と呼ばれていたこの北の島が「北海道」と改称され、翌8月、開拓使が設置されました。
肥前(現在の佐賀県)出身の開拓判官・島義勇が札幌本府建設のため200人の部下や人夫をひき連れて札幌入りしたのは、この年の暮れのことでした。
このときの札幌中心部の人口は「2戸7人」と記録されています。近郊の住民はアイヌの人びとも含めてせいぜい100人ばかり。鹿や熊や狼がうろつく、太古のままの原野でした。
島判官は、札幌建設着手にあたり、札幌入りの直後、円山の小高い丘のうえから広大な石狩平野を見渡したといいます。
島がみたのは、息を呑むような遠大な空間でした。どこまでもひろがる鬱蒼とした原始林と白一面の大平原、巨大なキャンバスのような石狩平野です。
札幌市役所のロビーに、島義勇の立像があります。
立像の下には、島が詠んだ「五州第一」と題された漢詩が刻まれています。その中で「将来ここに世界的な大都市が出現するだろう」と島は予言しています。そして、予言は現実となりました。
島が見渡した大平原こそ、北海道開拓事業の“原風景”であり“ビジョン”でした。開拓使の使命と意志は、きわめて視覚的に体現しえたのです。「われわれは、いま眼前に広がるこの大平原を拓く。それが北海道開拓の第一歩である」と。
島はその拠点となる札幌本府建設の基本構想を描きました。
それは、豊平川の西岸に300間(約550メートル)四方の本庁敷地をおき、その南正面に420間(約770メートル)四方の広場をつくって、京都を模して碁盤の目に区切り、町を設けるという壮大なものでした。島は、冬のさなか本府建設をすすめました。しかし、札幌滞在わずか2カ月にして更迭され、こころざしなかばにして帰京します。
しかし、島の本府建設の夢は、開拓判官・岩村通俊や、開拓次官(のち長官)黒田清隆へとひきつがれていきました。
岩村の構想は、島のそれよりさらにひとまわり大きいものでした。創成川を境に東西を分け、幅60間(108メートル)の大通で南北を分けて、60間四方に区切った整然とした市街地を建設しようというものでした。
現在の札幌市街中心部の原形がこうしてうまれました。


「費用をくいすぎる」というのが、島更迭の理由だった。
冬のさなかの建設の強行だった。島はかたっぱしから人夫を雇った。翌3年2月にはその数は500人にのぼった。人の背丈を越えるほどに積もった雪をかき分けて役所や人家を建てるには、人夫に報酬をはずまなければならなかった。予想をはるかにこえて出費がかさんだ。
さらに不運がかさなった。開拓使の物資補給船、昇平丸(洋式帆船)が、漂流ののち沈没したのである。
明治2年9月、1300俵とも1500俵ともいわれる大量の米を満載して品川から出帆した昇平丸は、函館に到着し、出帆したのち強い北西の風に吹かれてはるか沖に流されたまま漂泊しつづけた。いったん大島沖まで流された昇平丸は、1月末、やっと江差沖まで北進したが、そこで難破、沈没した。銭函に陸揚げされるはずだった米は、船もろとも海底に消えた。
ただでさえ食糧が不足していた。そのうえ補給が絶たれてしまったのである。しかし餓死するわけにはいかない。金を惜しまず食糧を買いあさった。食糧ばかりでなく、大量の資材も手に入れなければならない。どんどん出費がかさむ。札幌入りのときに持ってきた資金6万両はたちまち底をついた。
「至急上京せよ」との命令が札幌に届いた。
開拓判官を罷免されたのち、島は侍従、秋田県令となったが、明治7年、前年の征韓論をめぐる中央政府の分裂に刺激された士族の不穏を鎮めるために出身地の佐賀に派遣され、逆に苦境にある士族に同情して、同じく不平士族鎮圧に派遣された江藤新平とともに佐賀の乱に立ちあがり、刑死した。

いつのころからか「開拓使通り」とよばれるようになった通りがあります。
北海道のシンボル、道庁赤れんが(北海道庁旧本庁舎)の正門からまっすぐ東にのびる、現在の北3条通りです。
むかし、「札幌通り」ともよばれていた、この通りの中心線は、赤れんがの建物の中心とぴったりと重なっています。
道庁正門前の通りは、大正13年に、木塊(もっかい)とよばれる木製のレンガが敷きつめられ、車道と歩道の境に銀杏(いちょう)の並木が植えられた、北海道最初の舗装道路です。

この通りをまっすぐ東にむかい、創成川をわたると、かつて開拓使によって建設された事業所群の跡地になります。サッポロファクトリーの周辺、東2~5丁目あたりにかけてがそうです。
いまはビルやマンションが建ち並ぶふつうの市街地になっていますが、よくみると、ところどころに石造りの倉庫や、古い民家や商店、小さな町工場がのこっていたりして、わずかに昔の面影をしのばせています。
明治初期、創成川の東側一帯のこのあたりに、開拓使は、木工、機械、馬具、製網、製紙、缶詰、製油、味噌醤油醸造、製粉、製糸などの大小さまざまな工場からなる事業所群を造成しました。いまふうにいえば、「工業団地」、それも、当時の最先端の技術を集積した、“明治のハイテクパーク”です。
北海道への移民と開拓が本格化したのは、明治20年代以降のことです。開拓使の時代(明治2年から15年まで)は、北海道開拓そのものというより、本格的に開拓にとりかかるためのインフラ(社会基盤)整備の時代でした。開拓使の事業所群は、北海道開拓をすすめるための、いわばベースキャンプとなるものでした。
鬱蒼とした原始林を切り開き、開墾をすすめるには、そのための農具はもちろん、開拓者の衣食住を満たす生活用品を確保しなければなりません。当時の北海道は人もまばらで、必要な物資は本州から持ちこむか、自分たちの手でつくり出すしかありません。また、できた農産物を本州に送り出すためには、さまざまな加工施設や、製品を搬出するための輸送路が必要でした。建築資材となる木材を運ぶにも加工するにも、また、工場を稼働させるためにも、大量の用水や、機械の動力源として水資源が不可欠でした。
「創成川以東側は工業地帯にすべし」と進言したのは、開拓使の招きで明治4年に来日し、北海道を視察したケプロンでした。
幕末、大友亀太郎が築いた大友堀(いまの創成川)と、豊かに水をたたえて流れる豊平川にはさまれ、さらに、数多くのメム(アイヌ語で『わき水』を意味する)からなる伏古川(フシコサッポロ川)の源流地帯にあたるこの地域一帯は、ベースキャンプの立地条件としては最適でした。
ケプロンの進言を開拓使は受け入れ、実行しました。開拓使は「勧業」「勧農」を旗印に、創成川の東岸地域一帯に、欧米から取り入れた当時の最先端の技術を集積した一大工業施設群を建設しました。それは、広大な北海道の開拓をすすめるためのベースキャンプであると同時に、日本の近代的な産業おこしのシンボルゾーンといえるものでした。
北3条通りは、開拓使本庁舎とこの事業所群とを結ぶ、開拓使時代の歴史のメインストリートでした。それが、この通りが「開拓使通り」とよばれるようになった、ゆえんです。
ケプロンは、北海道への移民のすすめかたについて、こう進言しています。
「政府は、北海道に人民を移し土地を拓くにあたって、どんな方法をとるにせよ、まず北海道を測量して区画図をつくることを最優先すべきである。それを最初に石狩平原に施し、次いでさらに遠方に広げていきながら拠点となる集落を計画し、鉱山を調査すべきである」(『開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文』口語訳)
まず石狩平野の地ならしを行い、それから段階的に開拓のエリアを全道にひろげてゆくべきだ、というのです。石狩平野の開拓は、いわば北海道開拓のシンボル事業でした。
そのための拠点として、ケプロンは、創成川の東側地域に着目しました。「創成川以東側は工業地帯にすべし」とケプロンは進言しています。その理由は、開拓使本庁からも近くて都合がいいことと、なによりも豊かな水資源にありました。
ケプロンは日誌にこうしるしています。
「ここには素晴らしい水力がある。もしうまく開発すると、多数の人口をまかない、必要な動力をすべて提供し、また、この大平野に潅漑の便を(必要とあらば)与えるだろう。そして、もし今の季節が雨の少ない気候の良い例だとしたら、潅漑用の溝や運河の施設を完全に作ることがいかに重要か、必ずわかるだろう」(『ケプロン日誌~蝦夷と江戸』西島照男訳)
大友堀は運河として利用できます。ケプロンが訪れた明治4年には、上流の鴨々中島に貯木場と水門が設けられていました。鈴木元右衛門堀といい、現在の中島公園の菖蒲池のルーツです。水門を開閉して水量を調整し、水路として利用しようというのです(実際に、翌5年には、創成川の東側に蒸気木挽場が建設され、貯木場から原木が流送されるようになりました)。
豊平川と伏古川は、のちに誕生したビール醸造所にとって、まさに天の恵みでした。豊平川からは、冬の間に、ビール醸造に欠かせない天然氷をいくらでも確保することができました。夏になると、冬の間蓄えた氷を氷室から取り出して使いました。伏古川の水は、そのまま原料水に利用できるほど澄んでいました。下流が石狩川に合流する伏古川は、小舟を使えば、製品の搬出路としても利用できます。
開拓使の事業所群の一角(北2条東4丁目、現在のサッポロファクトリーの地)にビール工場が誕生したのは、ケプロンが最初に札幌を訪れてから5年後の、明治9年(1876)9月23日のことでした。開拓使時代にかんするさまざまな記述のなかでよく紹介される「開拓使麦酒醸造所開業式」の写真は、この日に撮影されたものです。
開拓使がつくったビール工場は、最初は木造の建物でした。
ビール醸造が成功し、札幌産ビールが全国に知れわたるにつれて、木造の工場はやがてレンガ造りになり、次つぎと増築されていきました。
開拓使が廃止になったのは、明治15年(1882)のことでした。それにともない、開拓使が造成したさまざまな事業所は民間に払い下げられましたが、それらは時代の流れのなかで次つぎに姿を消していきました。
そのなかでただひとつ、現在に継承されてきたのが、ビール工場です。
明治、大正、昭和と、長いあいだビールをつくりつづけてきたかつての工場の敷地には、宮崎駿のアニメに出てきそうな、蒸気機関車の胴体をいくつもつなぎあわせたような黒い鉄の煙突や、古いレンガの建物がのこっています。開拓使と、北海道開拓時代の記憶を刻む「近代遺産」です。
平成のはじまりと同時に、ビール工場の移転にともない、これらの「歴史的建造物を保存し、工場の敷地をあたらしい商業施設として再生しよう」という都市再開発計画がもちあがりました。
そうして、平成5年、サッポロファクトリーが誕生しました。
「さっぽろふるさと文化百選」に指定されている、現在のこる3つのレンガ造りの建物のうち、北3条通りに面したもっとも古い建物は、明治25年に建てられたものです。



大久保利通、吉田松陰、山県有朋、木戸孝允、江藤新平、坂本龍馬、井上馨、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、中岡慎太郎、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、陸奥宗光…。
倒幕・維新に奔走した志士、それも超大物たちの名前です。
このうち、吉田松陰、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作、久坂玄瑞は、維新を間近にしながら世を去っていますが、その他の維新後に生き残った人たちは、明治新政府の中枢を担い、近代国家日本建設のキーマンとなりました。
幕末・維新史の大物、というのとは別の共通点が、これらの人びとにはあります。
じつは、全員が天保年間(1830~1844)の生まれなのです。
天保元年(1830)生まれの大久保利通から、同15年(途中から弘化に改元・1844)生まれの陸奥宗光まで、生年順に並べてみると、上記のようになります。幕末・維新期の大物の中で、天保年間生まれではない人物といえば、文政10年(1827)生まれの西郷隆盛くらいのものです。
それは、単なる偶然ではありません。
260年余にわたって続いた徳川幕府が倒れ、明治新政府が誕生した年(1868)、天保元年生まれの大久保利通は38歳。もし生きていれば、吉田松陰も同じく38歳、坂本龍馬は33歳、高杉晋作は28歳でした。維新を生き抜き、のちに内閣総理大臣になった伊藤博文は高杉の1歳下で、この時27歳、第2次伊藤内閣で外務大臣となった陸奥宗光は24歳でした。
倒幕・維新をなしとげたのは、“天保ジェネレーション”、30代のリーダーと20代の若者たちだったのです。
開拓使のキーマンたちも、天保年間生まれの人びとによって占められています。
長官の黒田清隆(天保11年生まれ)をはじめ、北大の前身、札幌農学校の初代校長を兼務し、開拓使廃止後の北海道三県一局時代には札幌県令(県令は現在の知事にあたる)をつとめた調所広丈(同11年)、同じく根室県令となった湯地定基(同14年)、函館県令の時任為基(同12年)、「屯田兵の父」と呼ばれ、のちに岩村通俊についで第2代北海道長官になった永山武四郎(同8年)といった人びとです。
のちに奈良県知事や帝室奈良博物館館長などを歴任した小牧昌業(同14年)や、開拓使官吏時代は樺太の事情通で知られ、開拓使廃止後は北海道炭砿鉄道社長となった堀基(同15年)も天保年間の生まれでした。
もう一つ、共通しているのは、彼らのすべてが薩摩出身者だという点です。
開拓使について語るとき、彼ら「南国生まれのサムライ」たちの存在を無視することはできません。
彼らにとって、明治初期の北海道は、日本の近代化を成しとげるための、壮大な実試場だったのです。
開拓使麦酒醸造所の建設・事業責任者、村橋久成も、“天保ジェネレーション”の一人でした。天保13年(1842)、薩摩に生まれたサムライ、それもとびきりの上級武士でした。
村橋が最初に歴史の舞台に登場するのは慶応元年(1865)、23歳の時のことでした。
この年、薩摩藩は15人の留学生と4人の使節をイギリスに送り込みました。
幕末の薩摩藩にはきびしい階層分けがあった。
藩士は鹿児島城下に住む城下士と、地方に住む郷士に大別される。
城下士は、親族としての待遇を受ける御一門四家を頂点に、一所持(一郷の領主)、一所持格、寄合、寄合並と無格の大身分(上級武士)。ついで小番、新番、御小姓与、それに与力を加えた9つの家格に分かれていた。
御一門四家は江戸幕府の御三家にあたる。薩摩藩には隈州重富家(島津若狭)、同加治木家(島津兵庫)、同垂水家(島津備前)、薩州今和泉家(島津因幡)の四家があった。
村橋久成は、天保13年(1842)、そのうちの一つ、加治木家、島津兵庫の分家にあたる村橋家の長男としてうまれた。
明治維新がなければ、おそらく家老クラスになる身分だった。
加治木家のルーツは、第18代・島津忠恒のち家久(1578~1638)にたどることができる。
家久は、徳川幕府体制下の薩摩藩の基礎を築いた人物で、藩政の拠点となってきた鶴丸城を築いたのも家久だった。家久の二男、島津忠朗(1616~1678)が、加治木家の開祖(初代)である。
15人の留学生は、次のようなメンバーからなる。
氏名・(幕府の目をくらますための変名)・年齢・役職・*のちの氏名
町田 民部(上野良太郎) 28 開成所掛大目付学頭 *町田 久成
村橋 直衛(橋 直輔) 23 御小姓組番頭 *村橋 久成
畠山丈之助(杉浦 弘蔵) 23 当番頭 *畠山 義成
名越 平馬(三笠政之介) 21 当番頭
市来勘十郎(松村 淳蔵) 24 奥御小姓。開成所諸生 *松村 淳蔵
中村 博愛(吉野清左衛門)25 医師
田中 静洲(朝倉 省吾) 23 開成所句読師 *朝倉 盛明
鮫島 尚信(野田 仲平) 21 開成所句読師
吉田 巳二(長井五百助) 21 開成所句読師 *吉田 清成
森 金之丞(沢井 鉄馬) 19 開成所諸生 *森 有礼
東郷愛之進(岩屋虎之助) 23 開成所諸生
町田申四郎(塩田権之丞) 19 開成所諸生
町田 清蔵(清水兼次郎) 15 開成所諸生 *町田清次郎
磯永 彦輔(長沢 鼎) 13 開成所諸生 *長沢 鼎
高見 弥一(松元 誠一) 31 開成所諸生
そして、4人の外交使節がかれらに随行した。
新納 刑部(石垣鋭之助) 33 大目付御軍役日勤視察
松木 弘安(出水 泉蔵) 33 御船奉行 *寺島 宗則
五代 才助(関 研蔵) 29 御船奉行 *五代 友厚
堀 孝之(高木 政次) 21 英語通弁
村橋が最初に歴史の舞台に登場するのは慶応元年(1865)、23歳の時のことでした。
この年、薩摩藩は15人の留学生と4人の使節をイギリスに送り込みました。
西欧への留学生派遣は、安政5年(1858)に急逝した藩主・島津斉彬の遺志でした。
幕末の名君といわれる斉彬は、「西欧の近代的な技術を学び、豊かな強い国をつくらなければ日本は列強の支配をまぬがれえない。いずれ支配され、植民地への道をたどることになるだろう」と考えていました。留学生の派遣はその一つの布石でした。
この構想が、五代友厚の建言によって、斉彬の死から7年を経てにわかに実現されることになりました。
この前年、薩摩藩はイギリスと対戦し、大きな痛手を被っていました。そのイギリスに学ぶべきだというのです。
イギリス人たちに「サツマ・スチューデント」と呼ばれた15名の留学生のうち、門閥から選ばれた若者の一人が、村橋久成でした。
鎖国下の幕末の海外留学。イギリスへの出国は国禁をおかしての密航です。幕府の目をくらますために、全員が変名で呼び合い、琉球出張の名目で鹿児島を発ちました。
留学生たちは、大英帝国が繁栄をきわめたビクトリア王朝時代のイギリスを体現しました。
「世界の工場」といわれた近代産業と、市民が選挙権を持つ社会がそこにはありました。ロンドンは人口300万人を超える世界一の近代都市でした。14年前にすでに第1回万国博覧会が開かれ、大量の鉄とガラスでつくられた巨大な建物が世界を驚嘆させました。街路にはガス燈がともり、地下鉄が走る近代都市でした。

(後列中央が23歳の村橋久成)

ロンドン大学に学び、初めて見る西洋文明に、村橋は激しいカルチャーショックを受けました。それは、35年後の明治33年(1900)、ロンドンに留学中の夏目漱石が陥ったノイローゼもしくは鬱状態に似たものでした。あまりにも巨大で異質な文明にうちひしがれたのです。
当初2年間を予定していた留学を打ち切り、出国の翌年、村橋は帰国しました。
それを実現にみちびいたのは、五代才助(友厚)だった。のちに大阪株式所や大阪商法会議所を創設し、初代会頭となって日本の近代商工業の礎を築いた人物だ。
薩英戦争のとき(1863年7月)、五代は、同志の松木弘安(寺島宗則。のちに外務大臣などをつとめ、外交の長老となる)とともに、意図的にイギリス軍の捕虜となった。攘夷思想にこりかたまっていた藩論の転換をはかろうとしたのである。
釈放後、各地を点々としながら潜伏していた五代は、翌年、長崎に姿をあらわした。
長崎で五代は、英国の商人、トーマス・グラバーと親交を深め、海外の情勢と、日本のおかれている状況を知る。おそらく二人は、長崎の港を出入りする船をみおろす丘のうえにあるグラバー邸で密会したにちがいない。
倒幕の工作者だったグラバーは、反幕府派の若くて聡明な人材を西洋に送りだし、見聞させることによって倒幕を加速できると考えていた。五代がグラバーに出会った前年には、すでに伊藤博文、井上馨ら五人の長州人を西欧に送り出していた。薩摩はライバルの長州に先をこされていたことになる。
「いまこそ欧米の先進諸国を広く実地見聞し、偏狭な世界観を刷新して藩のあたらしい方向性をみい出すべきときだ。長州に遅れをとってはならない」と痛感した五代は、イギリスへの留学生派遣を決意し、グラバーに協力をもちかけた。
グラバーは若き薩摩人たちを密かに出国させる段取りをつけるために上海に発ち、五代は藩に上申書を提出する。五代の建言はただちに藩に採用されることになる。
グラバーは、このとき26歳の若者だった。イギリス人の「天保ジェネレーション」だったのである。


当時、長崎には150人の外国人が在住し、その半数をイギリス人が占めていた。なかでもグラバーは、もっとも名を知られた西洋人のひとりだった。幕末の日本、とりわけ薩摩や長州にとっては最大の重要人物といってもいい。グラバーは、船舶や武器の調達経路を握っていたのである。
1838年、スコットランドにうまれ、19歳のときに上海にやってきて貿易のビジネス術を身につけたグラバーは、長崎が開港した安政6年(1859)に来日し、その2年後、グラバー商会を設立した。
開港と同時に、長崎は巨大な市場に変貌していた。グラバー商会は、東アジア最大の貿易商社、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店をつとめる。マセソン商会の強力な資金力を背景に、グラバーは、薩摩藩や長州藩など幕府に対立する西南諸藩に船舶や武器を売って巨額の利益をあげた。幕末期にグラバー商会が売った船は、20隻。長崎に輸入されたすべての船の3割を占めた。
五代がグラバーに出合ったとき(1864)、グラバーは26歳の若者だった。グラバーがイギリスに送った伊藤博文は23歳、井上馨は29歳だった。五代も29歳、坂本龍馬も同じ歳だった。倒幕・維新をなしとげたのは「維新の三傑」といわれる西郷隆盛(27歳)、大久保利通(34歳)、桂小五郎(31歳)ら30代のリーダーと、陸奥宗光(20歳)、黒田清隆(24歳)ら20代の若者たちだった。坂本龍馬や五代友厚は、その両者をつなぐ中間世代ということになる。そのかれらと、グラバーは同世代だったのである。
同じ世代のものどうしに通う時代的な気分とでもいうようなものがある。
グラバーは伊藤・井上ら長州の五人につづく「叛逆者の侍の第二団」(『トーマス・グラバー伝』アレキサンダー・マッケイ著、平岡緑訳)として、若き薩摩人たちを密かに出国させる段取りをつけるために上海に発ち、五代は薩摩藩家老・小松帯刀をつうじて、藩に上申書を提出する。小松はグラバーとは親しい間柄だった。藩は、海外への留学生派遣をただちに決定した。
長崎随一の観光名所となっているグラバー園にある旧グラバー邸。日本でもっとも古い木造西洋建築物として保存されている文化財である。
この建物が建てられたのは文久3年(1863)のことだ。長崎に来て4年、グラバーのビジネスは軌道にのっていた。五代は前年に建てられたばかりのグラバー邸を訪れたにちがいない。
「おそらく二人は涼しい夕刻、グラバー邸のベランダで椅子に腰掛け、酒杯を干しながら計画を念入りに立てたであろう。眼下に広がる長崎港は、碇泊中の船内からもれる光や周囲の丘にまたたく灯火に明るく照らされていたであろう」(『トーマス・グラバー伝』アレキサンダー・マッケイ著、平岡緑訳)
二人が会った翌年(1865)には、西郷隆盛と坂本龍馬のあいだで、薩摩が藩の名義で長州のために武器を買う協定が成立した。武器のおもな購入先となったのが、グラバー商会だった。グラバー邸には、坂本龍馬や桂小五郎(木戸孝允)ら倒幕・維新のキーマンたちが足繁くかよった。この瀟洒なイギリス人の邸宅で、日本の将来を左右する重大な密談が交わされたのである。
留学生たちの、イギリス滞在中の最大のエポックのひとつが、イギリス到着から約1カ月後の7月29日、ロンドンから70キロほど北にある農業都市、ベッドフォードの鉄工所見学の旅だった。
「そこで見る物すべてに、彼らは興味を示した。人馬による農耕しか知らなかった彼らにとって、蒸気による自動鋤、刈取機などの農耕機械は、驚異以外の何物でもなかったのである」(犬塚孝明『薩摩藩英国留学生』)
ついでに、同書に紹介されている、1865年8月2日付けの『タイムズ』紙に掲載された「日本人のベッドフォード訪問」という記事を、翻訳文のまま引用する。ここにはロンドン留学のワンシーンが活写されている。
「英国の農業や工業の知識を習得するために、サツマ侯 (Prince Satsuma) から派遣された日本人の1団が、土曜日、ベッドフォードの英国製鉄所 (The Britannia Ironworks) を訪問した。ロンドン大学のウィリアムソン教授、グラスゴー大学の物理学教授、ほかに彼らの研究の指導にあたっている優秀な科学者たちが、彼らに同行していた。日本人たちは、体格が蒙古人そっくりで、人々の興味をひいたが、彼らは工場の諸機械及びさまざまの操作過程に非常な興味を示し、種々の細部にまで驚くほどすばやい理解を示した。彼らは、工場を大変離れがたい様子であった。しかし、最新式蒸気鋤の機関が動き出すと、およそ15名ほどの日本人たちは、地歩を占められる所ならどこへでも殺到して行った。どれほど大喜びで彼らがこの工場の広い敷地を縦横に動きまわったか、それはひどく楽しい光景であった。
ここで3時間を過ごした後、彼らはベッドフォード市長のジェームズ・ハワード (James Howard)氏と昼食を共にし、クラファム (Clapham) にあるハワード農園の蒸気鋤の見学に出かけた。彼らの驚きは頂点に達したように見えた。その操作が、考えていたよりもはるかに簡単であることがわかったのである。刈取機の操作も速やかに、しかも器用にこなした。引続き1行は、チャールズ・ハワード (Charles Haward) 氏の、有名な短角牛と羊を見学するためにバイデンハム (Bidenham) を訪れた。そこで市長と晩餐をとった後、ベッドフォード訪問が実に楽しかったことを述べ、英国人の親切なもてなしに感謝の意を表して、最終列車でロンドンへむかった」
幕末の海外留学が、現在の留学とはまるで次元のことなるものだったことは言うまでもない。みるもの聞くもの出会うもの、なにからなにまでまったく異質の、地球の裏側の世界の体験である。
あえてたとえるなら、地表を覆う大気をかいくぐって真空の宇宙空間に飛び出し、青く輝く地球を自分の目でみてふたたび地上に帰還した、こんにちの宇宙飛行士たちの体験にも似たものだったのではないだろうか。
留学生のひとり、森有礼は渡航に際してこんな句を詠んでいる。
宇宙周遊一笑中
「宇宙」とは、世界のことだ。
異国というよりも異次元世界にかれらは足を踏み入れたのだ。
幕末の「宇宙」航行者たちにとって、その渡航先はもちろん、母国はいったいどんなふうにみえたことだろう。
国禁を破っての海外への留学は、自己の肉体的な死を賭しての行為であった。と同時に、数百年間つづいた封建的な社会にうまれ育ったみずからのアイデンティティを根底からゆるがす、自己の破壊もしくは精神的な死の可能性をも、ともなうものだった。それまでの人生観や社会観、貧弱な世界観が一挙にくつがえされるような、究極の体験である。
実際、留学生のうち何人かは、帰国後、数奇な人生をたどっている。それまでのアイデンティティの崩壊と、まったくあたらしいもののみかたの萌芽がおこったのである。
しかも、村橋の渡英の状況は、以前から海外への渡航を夢みていた留学生とはわけがちがった。ふってわいたような話だった。欠員を補って急きょ選抜され、十分な心の準備もないままに世界につれ出されて、大英帝国が繁栄をきわめたヴィクトリア王朝時代の、成熟した近代イギリス社会をじかに体験したのだ。地下鉄が走る、パリ万博前夜のロンドンである。「世界の工場」といわれた近代産業と、市民が選挙権をもつ社会がそこにはあった。
衝撃はあまりにも大きかった。もともと感受性のするどい村橋が、激しいカルチャーショックをうけてふさぎこみ、「留学の続行が危険な状態」にまでおちいったことが、使節として同行した新納刑部の書簡などから明らかになっている。
村橋は、慶応2年3月、松木弘安とともにロンドンを発った。
2カ月かかって上海に着いた松木と村橋は、そこからイギリスの帆船に乗りかえた。
その船に、たまたま、ある人物が乗りあわせた。すぐれた実務家としての能力をかわれて、亀山社中(のちの海援隊)で坂本龍馬の右腕として働いていた紀州藩士・陸奥陽之助、のちに外務大臣となって対外交渉に天才的な手腕を発揮した、陸奥宗光である。
時代の潮流は大きく激しく変化していた。京都の小松帯刀の寓居で、西郷隆盛と桂小五郎とのあいだで6カ条の密約が交わされ薩長同盟が成立したのは、この年1月のことだった。3カ月前のことである。時代は、一気に倒幕・維新にむけて動きだす。留学生たちはそれを知らない。
仲介役の坂本龍馬の付添人としてこの同盟締結の現場に立ち会っていた陸奥は、すべてを知っていた。寺島と村橋に、陸奥はことのなりゆきを語ったにちがいない。留学中のわずか1年のあいだにおこった母国の状況の激変と、これからこの国におこることを、村橋は知った。
このときに知りあった陸奥と、村橋は11年後に札幌で再会することになる。そして再会からさらに16年後、外務大臣になったばかりの陸奥が村橋を弔うことになる。
駐日英国公使、ハリー・パークスが、グラバーの仲介によって鹿児島を訪問したのは、2人の帰国のわずか3週間後のことだった。西郷・小松らがパークスと重要な会談を重ねた。寺島は、対イギリス交渉担当者としてその場に列席した。会談をつうじて、生麦事件以来、イギリスと薩摩のあいだに横たわっていた不信感が氷解した。王政復古をめざすという方針についての暗黙の了解もなされた。このパークスの鹿児島訪問を機に、両者は急速に接近してゆくことになる。
7月、幕府と長州のあいだで戦闘が開始された。幕府は失態をあらわにする。グラバーをつうじて大量の新式の武器を入手していた長州藩によって、幕府軍は後退を余儀なくされた。パワーゲームの行き着く先はこのときすでにみえていた。
翌慶応3年10月、坂本龍馬がシナリオに描いたとおり、大政が奉還され、260年あまりつづいた徳川幕府の存立基盤がついに根底からくつがえされた。
村橋が英国に留学していた期間は、薩長同盟を折り返し点に、薩摩がこの国のゆくすえを支配した決定的な転換期だった。英国留学のゆえに、村橋が討幕運動で頭角をあらわすことはなかった。ほかの留学生たちもまた同じだった。幕末の動乱期に、母国を離脱して世界を体現したかれらは、幕末の志士たちとは一風ことなる、それぞれの人生をあゆんでゆくことになる。
帰国の2年後、歴史は大きな転換期をむかえます。
年号は慶応から明治へと変わりました。旧幕府軍と新政府軍の戦い、戊辰戦争で、村橋は加治木砲隊長として250名の部下をひき連れ、黒田清隆とともに東北各地を転戦しました。
村橋が歴史に登場する第2の舞台は、戊辰戦争の最終局面、箱館戦争でした。
箱館戦争に関するさまざまな戦記に、村橋の名前が登場します。
新政府軍の軍監として軍の指揮にあたっていた村橋は、榎本武揚に降伏を勧告して講和に導いた、戦争終結のキーマンでした。
新政府の陸軍総参謀・黒田清隆は、オランダで高度な学問を学んだ榎本武揚のすぐれた才能をうしなうのは国家の損失だと考え、榎本をうしなうことなく戦争を終結させようと、使いをたてて榎本に降伏を勧告しました。
その講和交渉の任務にあたったのが、軍監の村橋でした。
明治2年5月12日(新暦6月21日)、村橋は同郷の部下、池田次郎兵衛らとともに箱館病院を訪れた。病院長の高松凌雲は、敵味方の区別なく傷病兵を収容していた。戦場の赤十字である。村橋は、戦いで負傷して入院中の敵軍会津遊撃隊長・諏訪常吉を見舞い、見舞金25両を渡して、講和交渉を申し入れた。しかし、諏訪はあまりにも重傷で衰弱しきっていた。この4日後、諏訪は死亡している。
筆をとることのできない諏訪に代わり、病院長の高松が、村橋らの降伏勧告を伝える書を榎本に書き送った。
「…昨夜半頃、薩摩藩の池田次郎兵衛という人ほか4、5名が諏訪常吉のもとを訪れ、話すには、(榎本軍の)海軍は敗れたが、五稜郭と弁天台場ではじつに奮戦しており、武士の道として感服のいたりである。しかし、多くの人民が苦難をうけている。朝廷にそむき、人心にそむくことは、はなはだよろしくない。最近では(榎本軍を)のこらず殺戮してしまえという意見もあるそうで、面々(村橋ら)は必死の覚悟でここに来ている。しかし朝廷はけっしてそのように考えているわけではなく、あくまでも平和を望み寛大に対処しようと考えている。にもかかわらず、このままでは、もはや五稜郭と弁天台場に攻めこむしかないのかと言っている。非常に大事な状況であり、正しく判断して和平の道を選択すべきだとおもう。死をもって徹底抗戦するつもりなのかどうか、回答するようお願いしたい」
翌13日、書を受けとった榎本は、幹部を集めて会議を開いた。
14日、高松あてに榎本武揚からの返書が届けられた。榎本は「あくまでも戦うつもりである」と答えてきた。返書には上下2巻の本が添えられていた。榎本がオランダ留学中に手に入れ、長く秘蔵していた『海律全書』(フランス人オルトラン著『海の国際法と外交』のオランダ訳本)を、「戦火を避け、日本海軍の将来のために」と、高松をつうじて敵軍の総参謀・黒田清隆に贈ったのだ。
16日、黒田は返礼として酒5樽と鶏卵500個を贈って、ろう城の労をねぎらった。
榎本軍が降伏を表明したのは、翌17日のことだった。
実際には、その前にすでに新政府軍の勝利は確定していた。15日夜には、新政府軍に包囲され、孤立した榎本軍の要塞、弁天台場の兵士240名が投降した。榎本軍の事実上の敗北の瞬間である。そのときに榎本軍の兵器を受けとったのも、村橋だった。
村橋は、17日、旧幕府軍が新政府軍にたいして降伏を申し入れた決定的な現場にも立ちあっている。
榎本の降伏により、5月18日、ついに五稜郭は落城した。
開拓使は、いま風に言えば「開拓省」であり、現在の大蔵省や通産省と同じような国家の中枢をなす機関である。開拓使の事業は、北海道をおもな舞台に繰り広げられた、日本の近代国家建設の一大シンボル事業だった。
開拓使による北海道開拓事業は、黒田の建言によって明治4年に10カ年計画で立ち上がった。そのために、新政府は巨額の国費を投入した。その総額は1200万円とも1400万円ともいわれるが、税収や生産物の売上金などを含めれば、実際には2000万円におよぶ。国家予算が年間4000万円ばかりの時代の話である。投資額は年によって異なるが、最大の年は400万円以上、つまり国家予算の1割におよぶ資金が投入されたことになる。旧体制を破壊し、新政府を樹立したものの、国家経営のメドさえ立っていない状況の中で断行された、国の命運をかけての事業、といっていい。
開拓使時代は大きく2つに分けることができる。黒田清隆が開拓次官に就任する以前と、就任以降である。「肥前出身の島義勇や土佐出身の岩村通俊らが活躍した時代」と「薩摩閥が支配した時代」、といってもいい。
開拓使の初代長官は、肥前の藩主・鍋島直正だった。しかし、高齢で健康にすぐれず、在職期間はわずか2カ月間だった。2代目長官は公家出身の東久世通禧で、就任期間は2年2カ月間だった。
東久世が去ると、長官不在のまま、薩摩人・黒田清隆が開拓使の次官として登場する。長官を代行する、事実上の最高責任者だった。大人数のお雇い外国人を通じての大胆な欧米の技術導入や、10カ年計画での北海道開拓事業の展開、北海道開拓への専念といった、明治の国家機関の中でも特出した開拓使のカラーは、黒田によってもたらされたといっていい。
開拓使を掌握した黒田は、戊辰戦争や函館戦争で生死をともにした同郷人を次々に呼び寄せ、重要なポストに登用した。開拓使幹部の大半を薩摩人がしめることになる。
いまでこそ、「札幌」といえば「ビール」というくらいに、札幌のまちとビールの結びつきは強くて深い。開拓使のビール工場がそのルーツであることはいうまでもありません。ところが、じつは開拓使はもともと、札幌に麦酒醸造所を建てるつもりはなかったのです。
開拓使が麦酒醸造所の建設を決定したのは、明治8年(1875)のことです。建設地は札幌ではなく、東京・青山にあった官園でした。
青山に官園がつくられたのは明治4年のことでした。
官園はいまでいう農業試験場のようなものでした。その建設・事業責任者に、村橋久成は任命されました。
開拓使は、「将来北海道で栽培する農作物は、まず東京の官園で試験栽培し、成功のメドがついたら北海道に移植しよう」と考えていました。輸入種をそのまま北海道に移すと、気候・風土のちがいでいい結果につながらないかもしれない、というのです。
欧米から輸入された種や苗を、官園に植えた理由は、そればかりではありません。青山にあった官園は、開拓使のショールームのようなものでした。そこには、黒田とケプロンの政治的なもくろみがありました。珍しい外国の果樹を植え、高価な農業機械を導入して、天皇や政府中枢を招いては開拓使の存在や欧米の近代農業をアピールしようとしたのです。
「ここに文明開化の欧米風が吹きまくっていた」
明治から大正にかけて新聞記者として活躍した篠田鉱造の『明治百話』には、当時のこんな回想が紹介されています(『明治百話』)。当時の青山には、いわば鹿鳴館の産業施設版のようなものが出現していたのです。
ここに麦酒醸造所をつくれば、確かにPRのための演出効果は絶大です。しかし、醸造所開業のために開拓使が雇い入れた醸造技師はドイツ仕込みでした。
ドイツ式の醸造技術でビールをつくるには、東京では難しいことを村橋は知りました。イギリス留学と北海道在勤の経験をもつ村橋は、北海道の気候がイギリスやドイツなど世界的なビール生産国によく似ているのを知っていました。イギリス留学中、本場のビールを体験したこともあるはずです。
黒田やケプロンの政治的パフォーマンスに、村橋は興味はありません。「北海道での勧農(農業振興)が目的で麦やホップを栽培し、それを原料にビールをつくるのだから、醸造所は最初から北海道につくるべきだ。そのほうが費用のムダを省くことにもなる」と村橋は考えました。
農作物についても同じことが言えました。「そもそも開拓使の使命は北海道開拓にある。北海道に新しい農業をおこすためにこそ、さまざまな農産物の試験栽培をする必要があるのだ。よって、北海道で栽培する農産物は最初から現地で試験栽培するべきだ」と村橋は以前から考えていました。
友人のお雇い外国人、牧畜技術者のエドウィン・ダンや、園芸家のルイス・ボーマーの考えも同じでした。
「東京の官園内に」と開拓使が決定した麦酒醸造所の建設予定地の、北海道への変更を村橋は上申します。
「……北海道には建設用の木材も豊富にあり、気候もビール製造に適していて、氷や雪がたくさんあるのも都合がいい。(東京に試験的に建設するのではなく)最初から実地に建設したほうが移設や再建の出費を省くことができる。ついては、来春から北海道に建設することにしたい。建設地については、水利や運送、気温などビール醸造に適する場所を選ぶことが重要だ。どうか評議のうえ、至急、指令をくだされるように」
村橋の提言は認められました。
「麦酒醸造所を北海道に」という村橋の主張とよく似た主旨の書簡を、長官の黒田はドイツ駐在の青木周蔵から以前に受けとっていました。
重大な決意をもってしたためられた1通の文書が、札幌への麦酒醸造所建設を実現させたのです。
国家機関である開拓使の決定をくつがえし、建設地を東京から札幌に変更させた村橋久成。日本のビール産業の祖としての村橋の最大の功績はここにあります。なぜなら、もし開拓使が麦酒醸造所を東京に開業していたら、開拓使ビールは数年の間に跡形もなく姿を消していたか、それとも製法を根本から変えなければならなかったに違いないからです。いずれにせよ、日本のビール産業の成立は大きく立ち遅れていたはずです。
札幌への麦酒醸造所建設には、いくつかの背景がありました。
青山に官園がつくられたのは明治4年のことだった。
旧大名、松平頼英(青山南町7丁目、4万坪。現在の青山学院大学の周辺)、稲葉正邦(青山北町7丁目、5万坪。青山病院周辺)、堀田正倫(麻布笄町、4万7500坪。日赤医療センター、聖心女子大学周辺)の土地で、それぞれを第1、第2、第3官園と呼んでいた。第1・第2官園は主として果樹・野菜類を栽培し、第3官園は牧畜と牧草が中心だった。あわせて45ヘクタールあまりの広大な土地だった。
外来の農産物を東京官園に集中させた背景には、珍しい輸入植物や近代的な農業機械をみせることによって、開拓使の存在をアピールしよう、欧米の技術力を誇示しようという、黒田とケプロンのそれぞれのねらいがあった。
黒田とケプロンは、穀物の自動収穫機や、高性能な脱穀機、草刈り機、玉葱植付機など最先端の西洋農具を次つぎに輸入し、天皇以下、三条・西郷・大久保ら政府中枢が見守るなか、何頭もの馬を駆って大がかりな農業機械を操作してみせたこともあった。天覧農作業である。
しかし、それらの高価な農具のほとんどは、実際には日本では役に立たず、必要のないものだった。
ちょうど今の青山学院の辺を「1番地」といい、広尾の赤十字の下の方を「3番地」と唱えていた。この1番地と3番地の隔離れた地点をつなぐに、立派な道路が開かれて、これを「馬車道」と称して、ここに文明開化の欧米風が吹きまくっていたものである。西洋人の男女が馬車を駛らして、あるいは1番地に、草花を買い、果実を求め、享楽気分を漂わしていた。腕を組み合わせ、接吻を行っていた。たしか各国人だったから、世界をここに縮図したともいえる。……いわんや世界の文物を取入れて、果実の如きも林檎葡萄を始め諸種の珍しい物を取寄せ、そうしてソレを写生する絵師が数名雇入れてあったという贅沢だ(篠田鉱造『明治百話』)
幕末・維新前後の、使節団や留学生としての海外への渡航者は、日本人のビールの〈原体験者〉だったといっていい。外国人が持ちこんだ、何カ月間も船に揺られたものではなく、ビール生産の本場で飲む、本来の味わいをもった新鮮なビールである。
安政年間の開国以後、さまざまな使節団や留学生が欧米に派遣された。それらの人びとがのこした記録に、ビールを飲んだ記述がしばしば登場する。
日本人にとってビールはこのうえなくめずらしい、ふしぎな酒だった。この泡立つ、透きとおった琥珀色の飲みものを、日本からの使節や留学生に体験させるのは、欧米の国々の慣例のようなものだった。安政7年(1860)、日米通商条約の批准交換のために渡米した幕府の使節団も、文久2年(1862)、幕府最初の海外留学生としてオランダに派遣された榎本武揚ら一行もビールを味わっている。かれらの見聞とそれにもとづく提言が、のちの日本のビール産業成立に大きな力となってゆく。
欧米のビール産業についての本格的な視察・調査がおこなわれたのは、明治4年に日本を出発した岩倉使節団によってだった。
ダンは、巨額の創設費と維持費をつぎこんでなりたってきたこの東京官園が、
「気候風土や土壌などさまざまな条件の違いから、北海道の開発にとっては実際上の価値のないものだ」
と考えていた。
ボーマーも、
「北海道に果樹を移入するための中継地として東京に苗圃を設けたのはあやまりだった。東京官園の苗圃を放棄し、北海道で移入植物の育成をはかるのが最適だ」
と述べている


村橋の主張の合理性を裏づけるようなこの手紙の差出人は、長州出身の青木周蔵。のちに外交官として活躍し、第1次山県内閣では外務大臣となって欧米諸国との不平等条約改正に力をつくした人物だ(ペルー大使館人質事件で注目をあびた青木元大使の祖父にあたる)。
「将来、日本人もビールを飲むようになるにちがいない。ビールは日本酒より滋養分に富むので、国民の健康上も有益な事業であるばかりでなく、あの多量のアルコールを含む狂水、すなわち日本酒を退治する方法にもなるのではないか。しかし、ビールづくりには冷却用の多量の氷が必要だ。東京で多量の氷を入手するのは難しい。よって北海道でビール製造に着手してはどうか。ビールの醸造は、その原料である大麦の耕作を促進するので、ひいては北海道開拓の一助にもなるはずだ」(『青木周蔵自伝』)。
北海道でのビール製造をすすめる青木のこの手紙は、黒田の心をうごかした。
青木周蔵
弘化元年(1844)、町医者の家にうまれた青木周蔵は、長州藩の高名な蘭学医、青木周弼の弟、研蔵の婿養子となって、念願の士族入りをはたした。
青木周弼は、長崎でシーボルトに師事して西洋医学を学び、日本で初めて種痘をおこなったことでも知られている。13代長州藩主・毛利敬親の侍医で、幕末に文武両面ですぐれた人材を輩出した明倫館の医学所、好生館の会頭兼蘭学掛をつとめた。弟の研蔵も、好生館の西洋学師範掛となっている。青木周蔵の名は、周弼・研蔵の名の1文字ずつをとってつけられた。
山口県萩市には、いまも昔のままの姿をのこす武家屋敷群がある。そのなかのひとつに、旧青木家がある。門の前の石碑には青木周弼、青木研蔵、青木周蔵の3人の名が刻まれている。
青木家の3軒隣には、木戸孝允の旧家がある。長崎で医学を学び、海外への留学を切望していた青木は、明治元年、木戸の推挙をえてドイツに渡り、政治と法律を学んだ。

札幌産ビール誕生のもうひとりのキーマンが登場します。ドイツでビール醸造を学んだ中川清兵衛という人物です。
中川は嘉永元年(1848)、新潟にうまれました。慶応元年、村橋らがイギリスに渡ったその年、横浜の外人商館に勤めていた17歳の少年、中川清兵衛もまた密出国して渡英していました。
明治五年ころ、中川はドイツに移りました。正式な留学生ではありません。学問もこれといった技術もない中川は、ドイツ人家庭の家僕として働いていました。
じつは、その中川清兵衛をみいだし、ビール醸造を学ぶようにすすめて必要な資金を援助し、黒田に紹介したのも青木周蔵でした。
8年、中川が10年ぶりに帰国したときには、青木の紹介で開拓使麦酒醸造所の醸造技師になることがすでに決まっていました。
この年の夏、開拓使東京出張所に姿をみせた中川に採用辞令を手渡したのは、勧業課長の村橋でした。このときの採用にあたっての確認書の実物がのこっています。文面には何度も手が加えられたあとがあり、「契約途中で退職するのはまかりならない」という一項があります。高給を払い醸造人として雇うからには成功にむけて邁進せよ。一歩も後には引かせない、という村橋の激しい意気ごみが伝わってきます。
村橋久成は33歳、中川清兵衛は28歳でした。事業責任者と醸造人の二人三脚がはじまりました。
中川は醸造所の設計とビール醸造に必要な資材の調達、村橋は適地の選定から建築資材の手配、原料の入手、建設費の確保、人員の雇用や配置などに奔走しました。
そのほとんどは東京や横浜で手に入れたり、つくらせたりできましたが、ホップと酵母はこの時点では輸入するしかありませんでした。
それ以外にも、東京や横浜では入手しにくく、海外から輸入するわけにもいかないものがありました。
大量の氷です。
中川がビール醸造を学んだドイツでは、麦汁を摂氏10度以下に冷やして発酵させる下面発酵(または低温発酵)とよばれる方法が用いられていました。発酵が進むとともに酵母が槽の底に沈殿するところから、「下面発酵」と呼ばれました。それにたいし、常温の発酵では酵母は液面に浮上します。これを「上面発酵」または「高温発酵」といいます。イギリスなどではこの方法でビールがつくられました。
中川が学んだドイツ式の醸造法でビールをつくるには、冷温が不可欠だったのです。冷却には大量の天然氷が必要でした。ドイツでも、ビールをつくるためには、冬のあいだに従業員を総動員してあちこちの川や湖から氷を切り出し、運んで貯蔵しなければなりませんでした。暖冬になればもっと寒い地方まで足を運ばなければなりません。また、例年より暑い夏にそなえて、常に余分に氷を蓄える必要がありました。暖冬と暑い夏こそ、醸造技師の最大の悩みのたねでした。
中川からビール醸造についてのさまざまな話を聞くうちに、村橋は、氷と冷涼な気候こそビール醸造の成否の決定的なカギを握っていることを認識しました。
村橋は留学生時代にロンドンの冬を体験しています。それは、出身地の鹿児島はもちろん、東京ともかけ離れたものでした。箱館戦争ではじめて北海道の土を踏み、開拓使に入って以来、七重の官園や札幌の本庁に勤めてきた村橋は、北海道の気候をよく知っていました。北海道は気候条件もイギリスやドイツなどのビール生産国によく似ています。
「とにかく、氷がないことには成功の見通しはたたない。ドイツ仕込みの中川にビールをつくらせるには、東京ではだめだ。開拓使の決定がどうあろうと、この事業を成功させるためには、醸造所は北海道につくるべきだ」
そしてついに村橋は、東京の官園への麦酒醸造所建設、という開拓使の決定事項をくつがえすことを決意したのでした。
「中川清兵衛なる者あり」
と青木は自伝のなかで回想しています。
「(中川は)ドイツ人の家僕としてドイツに在住している。留学生の学費を預かっている銀行の利息を(中川の)学費にあてて、ベルリンで適当な技術を学ばせてはどうだろうと、年長者の池田(謙斎)氏に相談したところ同意を得たので、すぐに中川をベルリンに招きビール醸造を学ばせた。学問の素養がなくても、職工として実際の業務に従事すれば、自然に技術を身につけることができるから、学問も学費もない中川には最適ではないかとおもった」
留学生総代の青木は、日本から送られてきた留学生たちの学費の預金利息を、中川の実習研修費にあて、当時のドイツでは最大手のベルリンビール醸造会社に学ばせました。6年3月から8年5月まで、2年間あまり、中川はビール醸造を学びました。
中川がドイツから持ち帰った、ビール醸造所の修了証書が現存しています。ベルリンビール醸造会社社長・チンマーマンから明治8年5月1日に授与されたもので、羊の皮に、美しいていねいな手書きの文字でこう書かれています。
「1873年(明治6年)3月7日から今日にいたるまで旺盛な興味と熱意をもって、ビール醸造および製麦の研究に励み、その全部門にわたってすぐれた知識を習得して、ヨーロッパに来訪した目的を達成した。有能で勤勉な他国の一青年を教育しえたことは、大きな喜びとするところである。かれを送り出すのはしのびがたいものもあるが、心から、前途に幸多かれと祈る」
中川と出会った直後の8年8月、村橋は中川が申したてたビール醸造に必要な物品の一覧を開拓使に提出しています。
今般ヒール製造ノ為御雇相成候中川清兵衛ヨリ別紙之通申立候ニ付製造場ハ官園内に地所相撰ヒ建築必用物品ハ新規製造或ハ御買入相成度何レ御入費等取調之上相伺可申候得共概略相伺置候也 8月8日
「製造場ハ官園内に地所相撰ヒ」とある。この時点では、村橋はまだ麦酒醸造所の建設地として札幌にこだわっているわけではありませんでした。
「麦酒製造入用品」としてあげられているのは、次のようなものです。
一. ホヲプイン 壱箇 外国御注文の分
一. ヘーフ 二箇 同断
一. モヤシ取車 横浜ニテ買入レノ分
一. 麦大小見分車 同断
一. クダク車 同断
一. ボヲンヘー 同断
一. ダアラ 同断
一. 釜 四ツ 東京ニテ買入レノ分
一. 酒ヲサマス鍋 同断
一. チヤン 同断
一. フリキ氷入 同断
一. 徳利 同断
一. シラホコ 横浜ニテ買入レノ分
一. ジヨウゴ 同断
一. ファシトヲル 東京ニテ買入レノ分
「ホヲプイン」はホップ、「ヘーフ」は酵母。「モヤシ」は麦芽で「取車」は運搬車。「大小見分車」は麦の分粒機、「クダク車」は砕く車で粉砕機、「フリキ氷入」はブリキ製の冷却容器のことです。
ビール醸造にはなにが必要なのかを一つひとつ確認し、入手先を調べています。
ビール醸造は、かつてイギリスでみた近代的な農業の実践であると同時に、生み出された農産物(麦とホップ)からさらにビールという製品をつくり出す西洋流の工業でもありました。そして、製品を商品化して広く販売し、やがては輸出する。これこそ近代産業というものだ、と村橋は考えました。
当時の札幌は、人口わずか3000人たらず。市場もなければインフラもない遠い北の果て。開拓使の本庁があるとはいえ、まわりは荒涼たる原野です。そこにビール工場をつくるのは、冒険どころか暴挙にもおもえます。普通の企業であれば、札幌へのビール工場建設など考えもつかないでしょう。
「だからこそあえて札幌につくるべきなのだ」
と村橋は考えました。
「開拓使の使命は北海道の開拓にある。ビール工場をつくることによって、さまざまな関連施設や交通、輸送手段などの整備が必要になる。それをおしすすめるのが開拓使なのだ。あえて困難な道を選択をすることによってこそ、北海道の開拓にはずみがつくというものだ」
このころ村橋が矢継ぎ早に書いた数多くの稟議書がのこされています。それらの文面からは、まるでなにかにとりつかれたように醸造所建設に没頭する村橋の姿が浮かびあがってきます。
村橋の任務は、麦酒醸造所の建設だけではありませんでした。葡萄酒醸造所と製糸場の建設責任者も村橋でした。
明治9年(1876)5月、村橋は部下の職員や、技術者、職夫をひきつれて開拓使の輸送船、玄武丸に乗りこみました。大麦の栽培をする中国人農夫の監督官と、事務2名、あわせて3名の開拓使職員。鶏卵孵化技術者兼通訳。養蚕のための桑の栽培人2名。麦酒醸造人の中川清兵衛と、葡萄酒醸造人。製酒人夫2名、炊事人夫2名。それに麦酒と葡萄酒の樽職人1名の、13名でした。
東京を発った船は、一路北へとむかいました。
札幌のまちは、豊かに水をたたえていました。氷の心配もありません。
原料の大麦は、とりあえず屯田兵移民が栽培したものを買い上げれば手に入ります。札幌官園(現在の道庁周辺にあった)では、明治4年(1871)からすでにアメリカの大麦、小麦、裸麦の試験栽培をおこない、屯田兵の入植地に種子を配布していました。札幌官園では、8年には110石、9年には195石の麦を収穫しています。
ホップとビール酵母は、初年度はすべて輸入にたよるしかありませんでした。
秋の麦の収穫期前までの完成をめざして6月に着工された醸造所の建物は、8月中にはほとんど完成しました。
8月末には、太政大臣・三条実美ほか、参議の寺島宗則、山県有朋、伊藤博文がここを視察に訪れています。
醸造器械のとり付けも終えて、醸造所が竣工したのは9月8日のことでした。
そして9月23日、麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、そして製糸場の三つの工場の合同開業式がとりおこなわれました。
それに先立ち、9月21日には最初の麦が仕込まれました。醸造を急ぐ中川の進言を村橋が認めるかたちで、開業式を待たずに作業を開始したのです。
麦酒醸造所の生産能力は250石(45kl)でした。大ビン(633ml)に換算しておよそ7万1000本分になります。わずか7万1000本、といったほうがいいかもしれません。
というのは、この数年、全国各地に誕生している地ビール工場の年間生産量は「60kl以上」。つまり、大ビンに換算して、最低でもおよそ9万5000本分に相当します。開拓使がつくったビール工場は、生産量が現在のわが国のもっとも小規模な地ビール工場の生産量にも満たない、ミニブルーワリー、というよりマイクロブルーワリーといったほうがふさわしい規模のものでした。
開拓使時代の札幌の地図をみると、麦酒醸造所のすぐわきを伏篭川(フシコサッポロ川)が流れています。ビールをつくるには、きれいな原料水はもちろん、醸造用のさまざまな容器やビンを洗うための大量の水が必要でした。無数のメム(アイヌ語で“湧き水”のこと)からなるこの川の源流が、麦酒醸造所の建設地に選ばれました。
豊平川扇状地とよばれるこのあたり一帯は、無尽蔵の水資源をたたえていました。井戸さえ掘れば、地下を流れる清涼な伏流水をいくらでも汲みあげることができました。汲みあげた水は、夏でも手が切れるほどに冷たく、冬も凍ることはありません。
氷は、冬になれば近くの豊平川からいくらでも切り出すことができます。
このころの札幌の水事情をしるした明治の新聞記事があります。
……水は至って清冷なるゆえ、東京などの泥水と違いひとしおお心腸を涼しくし、またおりおりは貯えおきし氷もあり避暑には妙なる所なり……市中日用の物は豊平川より輸入する事にて水利の便はほどよし。
(明治8年8月7日付『東京日日新聞』)
ボーマーの手によって札幌にホップ園ができたのは翌10年、すべてを北海道産でまかなえるようになるには14年まで待たなければならなりませんでした。ホップは北海道に自生していましたが、野生のホップをそのままつかって質のいいビールができる保証はありません。試験している時間も、採集している人手もひまもありません。
村橋はアメリカにホップとビール酵母を注文する一方で、ドイツの青木周蔵にも入手をもとめています。しかし、海外からの貨物輸送はなにしろ時間がかかります。送られてくるものがそのまま使えるとはかぎりません。実際、前年の8年に試験的にイギリスから輸入したホップの苗は、輸送のあいだに腐敗していてとても使えるものではありませんでした。
酵母の入手にも苦心しました。東京の出張所はあの手この手を駆使して交渉し、奔走しなければなりませんでした。
太政大臣、参議の視察は、いまでいえば、内閣総理大臣と3人の閣僚ということになります。
村橋にとっては、これが大きな声援となり、心の支えとなったにちがいありません。参議の一人、イギリス留学からの帰国の際につき添ってくれたあの松木弘安です。
しかもこの一行には、帰国の途中、上海から船に同乗した陸奥宗光が随行していました。陸奥は元老院幹事になっていました。2人との11年ぶりの再会でした。
村橋のことを二人が「村橋どん」といったか「村橋君」といったかはわかりません。もしかしたら、親しみをこめて「久成さん」とでもいったかもしれません。とにかく、寺島と陸奥は、旧知の村橋の仕事をたたえ、大いに激励したにちがいありません。
醸造所の完成と、最初のビールの仕込みを見届けて、村橋は東京に転任しました。やがて札幌から届くはずの製品の受け入れ体勢を整えるために奔走しなければならなかったのです。
当時のビール事情は現在とは大きくことなっています。日本人のほとんどは、ビールを飲んだこともなければ、みたこともありません。ビールは外国人やごくかぎられた階層の高級な嗜好品でした。ちなみに、明治10年、最初にできたビールの払い下げ(販売)価格は、1ビン16銭、1ダースで1円60銭でした。いまの金額にすれば、1本3000円ほどにも相当します。それほど高価なものを買える人が当時の北海道にそういるわけがありません。つまり、ビールの市場が地場にはなかったのです。つくったビールのほとんどすべてを東京に送る必要がありました。
しかし、そのころ北海道から東京まで物を運ぶのは、いまでは想像もできないほど困難な作業でした。しかも、ビールは一種の生きものです。ビールを詰めるビンの確保からはじまって、輸送手段、冷蔵用の氷などあらゆる条件の整備が必要でした。道なき道を一歩一歩かき分けて進むようなものです。
ビンひとつとってみても、当時ビールビンの工場などあるはずもありません(札幌にビールビンの工場ができたのは明治33年のことです)。東京や、神戸・横浜・函館などの港町に外国人が持ちこんだビールやワインの使用済みのビンを再利用するしかありませんでした。開拓使は1本1銭ほどでかたっぱしからビンを買い集めました。
一方、札幌では中川が醸造に苦心していました。暖冬と、ドイツからとり寄せた酵母の品質がよくないため、発酵がおもうように進まないのです。
翌10年2月2日、札幌本庁の堀基から東京出張所の西村貞陽あてに至急電報が打たれています。
至急山梨の醸造所へ館員を出張させて注文させ、質のよき種(酵母)5斗を(雑菌のない)よき樽に詰めて至急送るべし
村橋は、今度は酵母入手のために奔走します。
失敗するわけにはいきません。醸造所の建設地を東京から札幌へと変更させたのは自分です。だからこそ、どんなことがあっても成功させなければなりません。
半月後の2月17日、村橋は札幌本庁の佐藤秀顕から電報を受けとります。
過日報知せし麦酒、昨日より盛んにわきはじめたり。安心せよ。委細は上局へ報知競せり
「ビールが発酵しはじめたので安心せよ」というものでした。
ちなみに、初年度のビールの生産量は、250石の生産能力にたいして100石(18kl)、大ビンに換算しておよそ2万5000本分でした。フル生産こそできませんでしたが、品質はほんものでした。日本ではじめての本格的なビール産業の誕生です。開拓使設置から7年。あたらしい近代的な産業が芽をふきました。
「冷製札幌麦酒」と名づけられた札幌産のビールがはじめて東京に到着したのは、10年6月のことでした。
開拓使の成果であるビールの到着を、長官の黒田清隆は待ち焦がれていました。黒田はさっそく、三条実美をはじめ、西南戦争のため京都の臨時本営で総指揮をとっていた大久保利通ら政府首脳にビールを届けさせました。開拓使の成果を、ここぞとばかりに披露したかったのです。
12本入り1箱のビールには、黒田の指示でそれぞれ次のような概略書が添えられていました。
一、醸造用の麦は米国種を培養し収穫せしものを用ゆ。
一、醸法はベルリン「チボリティ」醸造所において麦酒醸造の免許を得し中川清兵衛なるもの、これを醸造す。
一、通常、舶載のイギリスビールの急激なるものと異なり、その味、冷淡なるを以って英語でこれを冷製麦酒、あるいは日耳曼麦酒と称す。
ところが、いちばん肝心の内務卿・大久保利通に送られたビールは、12本とも、ビンのなかに一滴のビールものこっていませんでした。黒田は大恥をかくはめになりました。面子まるつぶれです。
当時は王冠などありません。買い集めたビンは不揃いで、口径もまちまちでした。コルクで閉栓したものの、とり付けがしっかりしていないために、長旅のあいだに内圧によってコルクが抜け、中身が噴き出してしまっていたのです。
京都本営から開拓使東京出張所に至急電報が入りました。
過日御回しの麦酒、コロップ取り付けかた不十分なるゆえ、内務卿(大久保)へ送りたる分、12本とも噴き出し、1滴ものこりなし。その他も多く噴き出したり。はなはだ不都合なり。村橋へ厳達、以後のところ注意されよ。
「村橋へ厳達」と、ここで村橋が名指しにされていることからも、村橋がビール醸造にいかに大きな責任を負っていたかがわかります。
では、肝心の札幌産の最初のビールの味や品質はどうだったのでしょう。
当時のビールの原料の使用量やアルコール度数などがしるされたレシピがのこっています。それによれば、ホップがやや多めに使われているため苦みが強く、麦100%の、コクのある本格的なドイツビールだったといいます。
開拓使ビールの品質について、ブラキストンはこう評しています。
実ニ最好ノ製法に候
そして、
「当地(函館)においても多少売りさばくことができます。長崎や、上海への輸出もできるでしょう。ただし、遠い海外に輸出するためには、貯蔵の成否を実験する必要があります。日本人むけにはビン詰で、外国人には樽詰で販売し、(使用後の)容器は定価を決めて買い戻してはどうでしょう」
と、販売とビンの回収方法についてもアドバイスしています。
長期間の保存と輸送に十分耐えられるだけの樽詰めの技術があれば、ブラキストン・マール商会をつうじて、札幌産ビールの上海への輸出が実現していたかもしれません。
ついでに、翌11年には、札幌農学校教師のペンハローが、
「ビールの色は鮮麗で光輝いているが、やがて赤みを帯び、若干の時間がたつと泡が徐々に上昇する。苦みもよいし、なによりも2回にわたって覚える芳香はもっとも愉快である」
と賛辞を送っています。
同じビールを東京で試飲したコルシェルトも、
「札幌で醸造された冷製ビールはじつに良好で、完全といえる。横浜醸造所のビールよりはるかに良くなっている」
と、製法の改良を評価しています。「横浜醸造所」とは、アメリカ人ウィリアム・コープランドが、居留地外国人の消費をみこんで横浜に開設した、スプリング・バレー・ブルーワリーのことです。
いよいよ商品化への挑戦です。
最初の札幌産ビールは、明治10年(1877)9月、大々的に売り出されました。
10月には第1号のラベルも刷りあがりました。村橋以下勧業課の職員が知恵をしぼって図案を作成しました。ラベルには開拓使のシンボルマーク「五稜星」が描かれ、その下に「サッポロラガービール」と書かれています。
このラベルの図版原稿がいまものこっています。星を描くためにコンパスでひいた線や中心の針穴、鉛筆の下書きや、文字を修正した形跡などがそのままのこっていて、苦心のあとがうかがえます。(写真)
関係者を一喜一憂させながらも、「冷製札幌麦酒」はしだいに人びとに知られるようになっていきました。
入手に苦心したホップは、醸造所のそばに5500坪のホップ園が設けられ、そこに開業の翌年春、東京から米国種644株とドイツ種201株、翌11年にはさらに米国種6773株が移植され、順調に生育しました。12年には第1から第4まで、合計1万4265坪のホップ園がととのいました。ボーマーが栽培の指導にあたりました。
輸送も改善が加えられ、積出港だった小樽の埠頭そばの斜面を掘りこんで、直射日光があたらない保管場所をつくりました。
味や品質にたいする評判も高まっていきました。
13年には、醸造所が大幅に増築され、生産量は開業時の2倍にはねあがりました。
またこの年、開拓使は中川清兵衛がビール醸造を学んだドイツの醸造会社に札幌産ビールを送り品評を依頼しています。翌年になってから、ドイツから一通の書簡が届きました。
「冷製札幌麦酒はホップが少し過分だが、ともかく、やわらかなエールのような美味をおびた上製のビールである。また、ホップはアメリカ産によく似ていて、その品質も良好で、ドイツ産に比べても少しも劣るところはない」
品評の結果は上々でした。
14年、東京・上野で内国勧業博覧会が開かれました。
この博覧会は、全国のすぐれた産物や発明品を集めて展示し、広く人びとにアピールして産業の振興をはかろうと、大久保利通による殖産興業政策の目玉のひとつとして、10年にはじめて開かれました。第1回は出品点数8万以上、入場者数45万人という大盛況でした。2回目にあたるこの年の博覧会には82万3000人が入場し、出品点数は33万点にのぼりました。この博覧会に初めて出品された「冷製札幌麦酒」は、有功賞を受賞しています。
このころには、原料用の麦やホップもすべて北海道産でまかなえるようになっていました。ビール生産はいよいよ軌道に乗りはじめました。宣伝の効果もあってにわかに人気が高まり、売り切れが続出するほどでした。
そうしたさなかに、村橋は突然開拓使に辞表を出します。
日本の動物の南北の生態分界線「ブラキストン・ライン」で知られる、英国人の探検家で鳥類研究家の、トーマス・ライト・ブラキストンは、開拓使の依頼でビール吟味し、品評報告しています。
ブラキストンは中国・揚子江上流の探検ののち、文久2年(1862)に、函館にやってきました。やがて友人マールと共同出資で貿易会社「ブラキストン・マール商会」を設立し、北海道の物産を独占的にとり扱って利益をあげました。三隻の持ち船で北海道の物産を横浜に運び、さらに長崎を経由して上海に輸出していたのです。
開拓使にとってブラキストンは、ビールを吟味できる当時数少ないモニターであり、アドバイザーでした。
西南戦争をさかいに、開拓使をとりまく状況は一変していました。
この戦争に費やした膨大な戦費が、もともと苦しかった明治政府の財政を一気に疲弊させました。
明治13年(1880)、政府は負債の利子だけで国庫収入の3割をこえるという深刻な財政危機に見舞われていました。しかも、年間収入の3倍近い1億5000万円もの不換紙幣を乱発していたのです。
財政的な要因ばかりではありません。
西南戦争が終結した翌年の明治11年5月、参議兼内務卿として新政府の権力を掌握し、殖産興業政策としての北海道開拓事業のバックボーンとなってきた大久保利通が、登庁途中、石川県士族・島田一郎ら6人の刺客に襲われて斬殺されました。
神にも近い存在として崇拝していた西郷をうしない、ついに大久保までうしなった長官・黒田清隆の失意は、はかりしれないものがありました。
逆風にさらに追い打ちをかけるように、北海道官有物払い下げ問題が巻きおこります。
村橋が開拓使を去ったのは、この空前のスキャンダルが巻きおこる直前の14年5月のことでした。
村橋はすべてを知っていました。
この月、払い下げ物件の報告が黒田に命じられました。開拓使の廃止の事実上の最終通告です。
その結果公表された払い下げ物件は、
東京は、村橋がいた函崎物産取扱所や、官舎をはじめ、倉庫とそれらの地所。玄武丸、函館丸など開拓使が所有する輸送船六隻。大阪は、貸付所所属の官舎・倉庫・地所。函館は、船場町の地所と、固定備倉および地所。小樽は、収税庫とその敷地。ほかに根室別海缶詰所。厚岸缶詰所。択捉ラッコ漁所と牧馬場などでした。
はたして札幌は……。
札幌牧羊場、真駒内牧羊場、葎草園、桑園と蚕室、葡萄園、そして、麦酒醸造所がふくまれていました。
翌六月には、東京出張所が廃止されます。東京出張所廃止のあとは、札幌本庁への勤務が待っていました。しかし、翌年には開拓使そのものが廃止になるのです。
「同じことだ」と村橋はおもいました。
村橋にとってはなによりも、開拓使の廃止そのものがゆるせませんでした。
いまやっと芽吹いたあたらしい産業の芽を、なぜ摘みとり放棄するのか。こころざしは、どこへいってしまったのか。倒幕・維新、そして開拓とあたらしい国づくりにささげられてきた無数の命は、いったいなんだったのか。なんのための開拓使だったのか。
村橋は激しい怒りをぶつけて開拓史を辞職します。
こうして村橋は開拓使を去り、やがて歴史の舞台から姿を消しました。
いつしか村橋は、雲水のような身なりに姿を変えて各地を行脚していました。雲水とは、行く雲、流れる水のように、道をもとめて諸国を遍歴する僧のことです。
故郷を捨て、家族を捨て、いっさいの自分を捨て去って、病身をかかえたままこの国をさまよい、開拓使辞職から11年後の明治25年、神戸の路上で病に行き倒れているのを発見され、その3日後に息を引き取りました
黒田は「明治6年の政変」、つまり、征韓論をめぐって西郷と大久保が袂を分ったころにはじまり、8年の千島樺太交換条約にもとづく樺太アイヌの移住とその扱いをめぐる意見のくいちがいから開拓使判官・松本十郎が開拓使を離脱した事件(9年)のころからはとくに、心のバランスをくずして、酒乱気味におちいっていました。
大久保が暗殺された年の3月には、黒田の妻が自宅で急死しました。「泥酔して帰宅した黒田が病の妻を斬殺した」といううわさがたち、新聞がスキャンダルとして書きたてました。
その年、黒田は東京を避けるようにめずらしく札幌に腰をすえて年を越しました。ところが、年明け早々の12年1月20日、開拓使本庁舎が火事で焼失するという事件がおきました。不慣れな集合煙突の欠陥工事が原因でした。開拓使のシンボルだった白亜の建物は、黒田の目の前で燃え落ちました。
開拓使による北海道開拓事業は、明治5年から10カ年計画ですすめられました。明治14年はその10年目にあたります。
黒田は「北海道の開拓はまだ不十分」として事業の継続を主張しました。しかし、その願いもむなしく、財政難に追いこまれた政府は、10カ年をもって開拓使の廃止を決定しました。
廃止にあたって、その前年の13年11月、政府は殖産興業政策のもとに設立した工場など官有物の民間への払い下げを公示しました。同時に、伊藤博文、大隈重信両参議の名で農商務省の設立案が提出されました。廃止後の開拓使の、事業の受け皿です。
逆境をはねのけ、政敵をけちらして開拓使の存続を貫き通すほどの、かつてのようなパワーを、黒田はすでに持ちあわせてはいませんでした。西郷も大久保もすでにこの世にはいません。政府の実権は、政治力にたけた伊藤博文ら長州勢によって掌握されつつありました。黒田の、というより開拓使そのものの挫折がすでに目にみえていました。
翌14年、黒田は北海道の官営工場を38万7000円、無利子・30年賦という条件で、安田定則ら同郷の部下をつうじて、同じく同郷の五代友厚らに払い下げようとしました。そうすることによって、開拓使廃止後もなんとか事業の継続をはかろうとしたのです。
これが、征韓論をめぐる中央政府の分裂、「明治6年の政変」と並ぶ、維新後最大級の政治の激動の火種になります。「明治14年の政変」です。
7月、官有物の払い下げをめぐって一大政治スキャンダルが巻きおこっりました。新聞が黒田のもくろみをスッパぬき、各紙がいっせいにこれを大々的に報じました。「薩摩閥の官財癒着」はマスコミの格好の攻撃対象となり、たちまち国民の怒りに火がつきました。
西南戦争後、物価は高騰し、人びとは生活窮乏にあえいでいました。困窮と、長いあいだの旧藩閥政治にたいする不満が噴出し、それを背景に自由民権運動や国会開設をもとめる叫びが一挙に高まっていきました。
その結果、払い下げの計画はとり下げられ、この事件で民権派を巻きこみ黒田の政敵となった大隈重信とその一派が政治の舞台から放逐されました。その一方で、民権派がもとめていた国会開設の勅諭がくだされました。明治22年の大日本帝国憲法発布と、翌年の国会開設は、この一大政変の置きみやげでした。
黒田は翌15年、開拓使を辞職します。
麦酒醸造所建設のころの村橋のなりふりかまわぬ、ほとばしるような情熱はとうに燃えつきていました。気がついたとき、周囲には維新で成りあがった政治家や経済人、そして官僚たちの野心と利権が渦巻いていました。開拓使が設立した工場は、利権にむらがる政商たちの餌食にされようとしていました。開拓使の廃止の方向が明らかになるにつれて、それまで尊大で横柄な態度をとっていたまわりの官僚や小役人たちの、ある者はそわそわと身辺整理をはじめ、ある者は卑屈に活路探しをしはじめました。そしてある者はどこまでも小利口にたちまわろうとしました。不正に小銭をふところに貯めこむ輩もいました。それは、いまにはじまったことではありません。以前から、官職を利用しての金銭の融通や、公金の着服があとをたちませんでした。その一方で、真剣に仕事にとり組んできた職員たちをとりまく環境は日に日に悪化していきました。
開拓使辞職の4カ月前、村橋が同僚の岡本長之にあてた一通の手紙がのこされています。
「1月10日」の日付と「村橋」の署名はあるが、公文書ではありません。
そのなかに、「長官ありてなきがごとし開拓使は……」と書きなぐった痛烈な一文があります。
長官の黒田を批判しているのではありません。
廃止に向けて着々と足場がかためられ、開拓使は政府から弾力性を欠いた予算運営を強いられていた。やむをえず予算の緊縮を指示した上司の金井の文書を批判したものです。
金井信之は、村橋が麦酒醸造所を建設したときの腕利きの会計課長でした。建設の資金をもとめる村橋からの文書を受けとり、資金を動かしたのは、金井でした。その金井にたいして、村橋はやり場のない怒りをぶつけました
「長官の通達にそって、通常の予算運営をすべきなのに、金井氏の書面は(それに反して)みずから判断をくだしたものだ」
そう指摘したあとに、「長官ありてなきがごとしの……」の文が続きます。
長官アリテナキカコトシ開拓使ハ書記官ノ所分ニ有之存ルカ実ニ恐入候
つまり、「(世間に)『長官不在』(といわれる事態をまねくようなこと)を、書記官(金井をさす)みずからが指示するとは、じつに恐れ入る(あきれてしまう)」と、怒りをぶつけているのです。
そして、「乱筆をもって申しあげておくが、詳細については、、直接申しあげたいと思っているので、そのことを覚えておいてください」と結んでいます。
爆発、といってもいいほどに感情をあらわにした手紙です。
村橋と中川が心血をそそいだ「開拓使麦酒醸造所」は、開拓使の廃止後、複雑な足どりをたどっています。
明治15年、開拓使廃止と同時に、農商務省工務局所管となり、北海道事業管理局札幌工業事務所の管理下におかれて「札幌麦酒醸造場」と改称されました。
その後明治19年1月、新たに設立された北海道庁の所管となり、同年11月、民間に払い下げられました。
このころのビール工場の様子を紹介した新聞記事があります。
……当札幌にて有名なるものは麦酒工場にて、我々も望みを属するものはこの醸造所なり。……目下醸造高1000石、1ダース原価1円60銭なり。これを同所も飲み試むるに、その味之美なること敢えてストックホールに譲らず。
と賞賛しています。といっても、「醸造高1000石」はちょっとオーバーです。このころの実際の生産量はせいぜい500石でした。それでも、大びんに換算して28万本に相当します。文中の「ストックホール」はストックビールのことで、当時人気が高かった銘柄です。
いずれにしても、このころにはビール(工場)がすっかり札幌の名物になっていたのはたしかです。
ところが、大きな問題がおこっていました。
このころ、札幌産ビールは一時的に東京から姿を消していました。
しかれども惜しむべし、
とこの記事はつづきます。
いかなる化学的の変化にや、これを市に出して数月を経る時は、瓶底に滞を生じ、水飴のごとくなるの憂いあり。故にこれを遠地に輸送販売するを得ずして、おおむね札幌、小樽、函館等当地地方及び南部津軽辺にのみ売り捌くのみなりという。東京に見ざるなりはけだしこの故なり。しかれども主任者は目下その原因取調べ中なれば、遠からず精醸の方法を得るならんといえり。(明治19年9月11日付『東京日日新聞』)
製造後数カ月経つと、ビールが変質したため、札幌や小樽・函館、東北地方の一部では販売していましたが、東京へは出荷できずにいたのです。
「いかなる化学的の変化にや」とありますが、変化の原因は「化学的」なものではなく、生物学的なものでした。
パスツールによって、熱処理による科学的な殺菌法(パストリゼーション)が発見され、その技術がドイツで確立したのは、中川が日本に帰国した直後のことでした。中川は熱処理が殺菌に有効なことを知ってはいたにちがいありません。しかし、あくまでも自分がドイツで学んだビールの製法に忠実であろうとしたのでしょう。ドイツ仕込みの技術者としての誇りが、熱処理という方法をうけいれませんでした。
とはいえ、醸造量は飛躍的に増えています。中川の製法では、つくったすべてのビールの品質を一定に保つことはむずかしかったのにちがいありません。新聞記事から、中川の苦渋が伝わってきます。
明治21年、札幌麦酒会社が設立されたのちも、中川は醸造人としてビールをつくりつづけました。中川はあいかわらず非熱処理製法にこだわりました。しかし、札幌麦酒醸造場時代に道庁に雇われてやってきたドイツ人技師、マックス・ポールマンは、熱処理と、それによる品質の安定性を誇示しました。
ビールの醸造量は増えつづけ、やがて中川の技術の限界をこえました。中川は、24年2月、ついに札幌麦酒会社を退職しました。村橋によって開拓使に採用されたとき、27歳だった中川は、このとき43歳になっていました。
退職後、中川は小樽で旅館を経営し、静かに余生を送りました。
この世を去るとき、見守る家族に、末期の水の代わりにビールをもとめたといわれています。