SAPPORO factory

SAPPORO 開拓使麦酒醸造所ものがたり 日本初の、日本人の手によるビールづくり。破壊と創造の時代に生きた人たちの開拓使麦酒醸造所誕生の物語
はじめに

この地に、開拓使のビール醸造所が誕生したのは、明治9年(1876)のことです。
日本初の、日本人の手によるビールづくり。そこには、北海道開拓と、近代国家日本建設にかける夢があり、さまざまなドラマがありました。
開拓使麦酒醸造所の建設・事業責任者となったのが、村橋久成という人物です。
村橋久成は鹿児島生まれのサムライでした。幕末、薩摩藩英国留学生としてイギリスに渡り、ロンドン大学に学びました。
帰国後、箱館戦争で活躍。明治4年、開拓使に入り、おもに農業振興に情熱を傾けました。
北海道の農業振興と、近代的な産業おこし。それが若いころイギリスで近代的な産業を目の当たりにした村橋の夢でした。ビール醸造は、できた農産物を加工し、製品として全国に広く販売する、近代的な産業そのものでした。

村橋の手によって明治の札幌産ビールが誕生し、生産は徐々に軌道にのっていきました。醸造所は次々に増築され、生産量も倍増を重ねていきます。
ところが…。
幕末、明治…、破壊と創造の時代に生きた人たち。そして、開拓使麦酒醸造所誕生の物語をつづります。

01. 開拓使のはじまりと、札幌の誕生

「開拓使時代」とは、明治2年(1869)から明治15年(1882)までの13年間をさします。
明治2年は、「北海道」と「開拓使」が誕生した年です。この年5月、箱館戦争が終結し、新政府がやっと本格的に始動しました。7月、長い間「蝦夷地」と呼ばれていたこの北の島が「北海道」と改称され、翌8月、開拓使が設置されました。
肥前(現在の佐賀県)出身の開拓判官・島義勇が札幌本府建設のため200人の部下や人夫をひき連れて札幌入りしたのは、この年の暮れのことでした。

このときの札幌中心部の人口は「2戸7人」と記録されています。近郊の住民はアイヌの人びとも含めてせいぜい100人ばかり。鹿や熊や狼がうろつく、太古のままの原野でした。
島判官は、札幌建設着手にあたり、札幌入りの直後、円山の小高い丘のうえから広大な石狩平野を見渡したといいます。
島がみたのは、息を呑むような遠大な空間でした。どこまでもひろがる鬱蒼とした原始林と白一面の大平原、巨大なキャンバスのような石狩平野です。

札幌市役所のロビーに、島義勇の立像があります。
立像の下には、島が詠んだ「五州第一」と題された漢詩が刻まれています。その中で「将来ここに世界的な大都市が出現するだろう」と島は予言しています。そして、予言は現実となりました。

島が見渡した大平原こそ、北海道開拓事業の“原風景”であり“ビジョン”でした。開拓使の使命と意志は、きわめて視覚的に体現しえたのです。「われわれは、いま眼前に広がるこの大平原を拓く。それが北海道開拓の第一歩である」と。

島はその拠点となる札幌本府建設の基本構想を描きました。
それは、豊平川の西岸に300間(約550メートル)四方の本庁敷地をおき、その南正面に420間(約770メートル)四方の広場をつくって、京都を模して碁盤の目に区切り、町を設けるという壮大なものでした。島は、冬のさなか本府建設をすすめました。しかし、札幌滞在わずか2カ月にして更迭され、こころざしなかばにして帰京します

しかし、島の本府建設の夢は、開拓判官・岩村通俊や、開拓次官(のち長官)黒田清隆へとひきつがれていきました。
岩村の構想は、島のそれよりさらにひとまわり大きいものでした。創成川を境に東西を分け、幅60間(108メートル)の大通で南北を分けて、60間四方に区切った整然とした市街地を建設しようというものでした。

現在の札幌市街中心部の原形がこうしてうまれました。

島義勇の銅像
島義勇の銅像
「五州第一」の漢詩
「五州第一」の漢詩
02. 開拓使通り

いつのころからか「開拓使通り」とよばれるようになった通りがあります。

北海道のシンボル、道庁赤れんが(北海道庁旧本庁舎)の正門からまっすぐ東にのびる、現在の北3条通りです。
 むかし、「札幌通り」ともよばれていた、この通りの中心線は、赤れんがの建物の中心とぴったりと重なっています。
道庁正門前の通りは、大正13年に、木塊(もっかい)とよばれる木製のレンガが敷きつめられ、車道と歩道の境に銀杏(いちょう)の並木が植えられた、北海道最初の舗装道路です。

開拓使通り(北三条通り)
開拓使通り(北三条通り)

この通りをまっすぐ東にむかい、創成川をわたると、かつて開拓使によって建設された事業所群の跡地になります。サッポロファクトリーの周辺、東2~5丁目あたりにかけてがそうです。
 いまはビルやマンションが建ち並ぶふつうの市街地になっていますが、よくみると、ところどころに石造りの倉庫や、古い民家や商店、小さな町工場がのこっていたりして、わずかに昔の面影をしのばせています。

明治初期、創成川の東側一帯のこのあたりに、開拓使は、木工、機械、馬具、製網、製紙、缶詰、製油、味噌醤油醸造、製粉、製糸などの大小さまざまな工場からなる事業所群を造成しました。いまふうにいえば、「工業団地」、それも、当時の最先端の技術を集積した、“明治のハイテクパーク”です。

北海道への移民と開拓が本格化したのは、明治20年代以降のことです。開拓使の時代(明治2年から15年まで)は、北海道開拓そのものというより、本格的に開拓にとりかかるためのインフラ(社会基盤)整備の時代でした。開拓使の事業所群は、北海道開拓をすすめるための、いわばベースキャンプとなるものでした。

鬱蒼とした原始林を切り開き、開墾をすすめるには、そのための農具はもちろん、開拓者の衣食住を満たす生活用品を確保しなければなりません。当時の北海道は人もまばらで、必要な物資は本州から持ちこむか、自分たちの手でつくり出すしかありません。また、できた農産物を本州に送り出すためには、さまざまな加工施設や、製品を搬出するための輸送路が必要でした。建築資材となる木材を運ぶにも加工するにも、また、工場を稼働させるためにも、大量の用水や、機械の動力源として水資源が不可欠でした。

創成川以東側は工業地帯にすべし」と進言したのは、開拓使の招きで明治4年に来日し、北海道を視察したケプロンでした。
幕末、大友亀太郎が築いた大友堀(いまの創成川)と、豊かに水をたたえて流れる豊平川にはさまれ、さらに、数多くのメム(アイヌ語で『わき水』を意味する)からなる伏古川(フシコサッポロ川)の源流地帯にあたるこの地域一帯は、ベースキャンプの立地条件としては最適でした。

ケプロンの進言を開拓使は受け入れ、実行しました。開拓使は「勧業」「勧農」を旗印に、創成川の東岸地域一帯に、欧米から取り入れた当時の最先端の技術を集積した一大工業施設群を建設しました。それは、広大な北海道の開拓をすすめるためのベースキャンプであると同時に、日本の近代的な産業おこしのシンボルゾーンといえるものでした。
北3条通りは、開拓使本庁舎とこの事業所群とを結ぶ、開拓使時代の歴史のメインストリートでした。それが、この通りが「開拓使通り」とよばれるようになった、ゆえんです。

03. 札幌産ビール発祥の地

開拓使の事業所群の一角(北2条東4丁目、現在のサッポロファクトリーの地)にビール工場が誕生したのは、ケプロンが最初に札幌を訪れてから5年後の、明治9年(1876)9月23日のことでした。開拓使時代にかんするさまざまな記述のなかでよく紹介される「開拓使麦酒醸造所開業式」の写真は、この日に撮影されたものです。

開拓使がつくったビール工場は、最初は木造の建物でした。
ビール醸造が成功し、札幌産ビールが全国に知れわたるにつれて、木造の工場はやがてレンガ造りになり、次つぎと増築されていきました。

開拓使が廃止になったのは、明治15年(1882)のことでした。それにともない、開拓使が造成したさまざまな事業所は民間に払い下げられましたが、それらは時代の流れのなかで次つぎに姿を消していきました。

そのなかでただひとつ、現在に継承されてきたのが、ビール工場です。
明治、大正、昭和と、長いあいだビールをつくりつづけてきたかつての工場の敷地には、宮崎駿のアニメに出てきそうな、蒸気機関車の胴体をいくつもつなぎあわせたような黒い鉄の煙突や、古いレンガの建物がのこっています。開拓使と、北海道開拓時代の記憶を刻む「近代遺産」です。

平成のはじまりと同時に、ビール工場の移転にともない、これらの「歴史的建造物を保存し、工場の敷地をあたらしい商業施設として再生しよう」という都市再開発計画がもちあがりました。

そうして、平成5年、サッポロファクトリーが誕生しました。
「さっぽろふるさと文化百選」に指定されている、現在のこる3つのレンガ造りの建物のうち、北3条通りに面したもっとも古い建物は、明治25年に建てられたものです。

開拓使麦酒醸造所(明治9年)
開拓使麦酒醸造所(明治9年)
かつてのビール工場のシンボル、煙突
かつてのビール工場のシンボル、煙突
明治25年に建てられたレンガの建物
明治25年に建てられたレンガの建物
04. 天保生まれのサムライ

大久保利通、吉田松陰、山県有朋、木戸孝允、江藤新平、坂本龍馬、井上馨、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、中岡慎太郎、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、陸奥宗光…。

倒幕・維新に奔走した志士、それも超大物たちの名前です。
このうち、吉田松陰、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作、久坂玄瑞は、維新を間近にしながら世を去っていますが、その他の維新後に生き残った人たちは、明治新政府の中枢を担い、近代国家日本建設のキーマンとなりました。

幕末・維新史の大物、というのとは別の共通点が、これらの人びとにはあります。
じつは、全員が天保年間(1830~1844)の生まれなのです。
天保元年(1830)生まれの大久保利通から、同15年(途中から弘化に改元・1844)生まれの陸奥宗光まで、生年順に並べてみると、上記のようになります。幕末・維新期の大物の中で、天保年間生まれではない人物といえば、文政10年(1827)生まれの西郷隆盛くらいのものです。

それは、単なる偶然ではありません。
260年余にわたって続いた徳川幕府が倒れ、明治新政府が誕生した年(1868)、天保元年生まれの大久保利通は38歳。もし生きていれば、吉田松陰も同じく38歳、坂本龍馬は33歳、高杉晋作は28歳でした。維新を生き抜き、のちに内閣総理大臣になった伊藤博文は高杉の1歳下で、この時27歳、第2次伊藤内閣で外務大臣となった陸奥宗光は24歳でした。
倒幕・維新をなしとげたのは、“天保ジェネレーション”、30代のリーダーと20代の若者たちだったのです。

開拓使のキーマンたちも、天保年間生まれの人びとによって占められています。
長官の黒田清隆(天保11年生まれ)をはじめ、北大の前身、札幌農学校の初代校長を兼務し、開拓使廃止後の北海道三県一局時代には札幌県令(県令は現在の知事にあたる)をつとめた調所広丈(同11年)、同じく根室県令となった湯地定基(同14年)、函館県令の時任為基(同12年)、「屯田兵の父」と呼ばれ、のちに岩村通俊についで第2代北海道長官になった永山武四郎(同8年)といった人びとです。
のちに奈良県知事や帝室奈良博物館館長などを歴任した小牧昌業(同14年)や、開拓使官吏時代は樺太の事情通で知られ、開拓使廃止後は北海道炭砿鉄道社長となった堀基(同15年)も天保年間の生まれでした。

もう一つ、共通しているのは、彼らのすべてが薩摩出身者だという点です。
開拓使について語るとき、彼ら「南国生まれのサムライ」たちの存在を無視することはできません。
彼らにとって、明治初期の北海道は、日本の近代化を成しとげるための、壮大な実試場だったのです。

開拓使麦酒醸造所の建設・事業責任者、村橋久成も、“天保ジェネレーション”の一人でした。天保13年(1842)、薩摩に生まれたサムライ、それもとびきりの上級武士でした。

村橋が最初に歴史の舞台に登場するのは慶応元年(1865)、23歳の時のことでした。
この年、薩摩藩は15人の留学生と4人の使節をイギリスに送り込みました。

05. 幕末の英国留学生

村橋が最初に歴史の舞台に登場するのは慶応元年(1865)、23歳の時のことでした。
この年、薩摩藩は15人の留学生と4人の使節をイギリスに送り込みました。

西欧への留学生派遣は、安政5年(1858)に急逝した藩主・島津斉彬の遺志でした。
幕末の名君といわれる斉彬は、「西欧の近代的な技術を学び、豊かな強い国をつくらなければ日本は列強の支配をまぬがれえない。いずれ支配され、植民地への道をたどることになるだろう」と考えていました。留学生の派遣はその一つの布石でした。
この構想が、五代友厚の建言によって、斉彬の死から7年を経てにわかに実現されることになりました。

この前年、薩摩藩はイギリスと対戦し、大きな痛手を被っていました。そのイギリスに学ぶべきだというのです。
イギリス人たちに「サツマ・スチューデント」と呼ばれた15名の留学生のうち、門閥から選ばれた若者の一人が、村橋久成でした。
鎖国下の幕末の海外留学。イギリスへの出国は国禁をおかしての密航です。幕府の目をくらますために、全員が変名で呼び合い、琉球出張の名目で鹿児島を発ちました。
留学生たちは、大英帝国が繁栄をきわめたビクトリア王朝時代のイギリスを体現しました。

「世界の工場」といわれた近代産業と、市民が選挙権を持つ社会がそこにはありました。ロンドンは人口300万人を超える世界一の近代都市でした。14年前にすでに第1回万国博覧会が開かれ、大量の鉄とガラスでつくられた巨大な建物が世界を驚嘆させました。街路にはガス燈がともり、地下鉄が走る近代都市でした。

薩摩藩英国留学生(後列中央が23歳の村橋久成)
薩摩藩英国留学生
(後列中央が23歳の村橋久成)
ロンドンでの村橋久成
ロンドンでの村橋久成

ロンドン大学に学び、初めて見る西洋文明に、村橋は激しいカルチャーショックを受けました。それは、35年後の明治33年(1900)、ロンドンに留学中の夏目漱石が陥ったノイローゼもしくは鬱状態に似たものでした。あまりにも巨大で異質な文明にうちひしがれたのです。
当初2年間を予定していた留学を打ち切り、出国の翌年、村橋は帰国しました。

06. 函館戦争

帰国の2年後、歴史は大きな転換期をむかえます。

年号は慶応から明治へと変わりました。旧幕府軍と新政府軍の戦い、戊辰戦争で、村橋は加治木砲隊長として250名の部下をひき連れ、黒田清隆とともに東北各地を転戦しました。

村橋が歴史に登場する第2の舞台は、戊辰戦争の最終局面、箱館戦争でした。
箱館戦争に関するさまざまな戦記に、村橋の名前が登場します。
新政府軍の軍監として軍の指揮にあたっていた村橋は、榎本武揚に降伏を勧告して講和に導いた、戦争終結のキーマンでした。

新政府の陸軍総参謀・黒田清隆は、オランダで高度な学問を学んだ榎本武揚のすぐれた才能をうしなうのは国家の損失だと考え、榎本をうしなうことなく戦争を終結させようと、使いをたてて榎本に降伏を勧告しました。
その講和交渉の任務にあたったのが、軍監の村橋でした。

旧幕府軍が降伏したのは、村橋らによる勧告から5日後のことでした。
村橋は、黒田・榎本の講和会議の場にも立ち会っています。

箱館戦争が終結したのは、明治2年(1869)5月のことです。

この2年後、同郷の黒田清隆が開拓次官(長官を兼務する事実上の最高責任者)に就任し、北海道開拓事業が立ち上がった直後、村橋は黒田に招かれ、開拓使に入ります。
やがて村橋は、北海道開拓、そして近代的な産業おこしに命を燃やしつくすことになります。

黒田清隆
黒田清隆
07. 麦酒醸造所は札幌につくるべし

いまでこそ、「札幌」といえば「ビール」というくらいに、札幌のまちとビールの結びつきは強くて深い。開拓使のビール工場がそのルーツであることはいうまでもありません。ところが、じつは開拓使はもともと、札幌に麦酒醸造所を建てるつもりはなかったのです。

開拓使が麦酒醸造所の建設を決定したのは、明治8年(1875)のことです。建設地は札幌ではなく、東京・青山にあった官園でした。
青山に官園がつくられたのは明治4年のことでした。
官園はいまでいう農業試験場のようなものでした。その建設・事業責任者に、村橋久成は任命されました。

開拓使は、「将来北海道で栽培する農作物は、まず東京の官園で試験栽培し、成功のメドがついたら北海道に移植しよう」と考えていました。輸入種をそのまま北海道に移すと、気候・風土のちがいでいい結果につながらないかもしれない、というのです。

欧米から輸入された種や苗を、官園に植えた理由は、そればかりではありません。青山にあった官園は、開拓使のショールームのようなものでした。そこには、黒田とケプロンの政治的なもくろみがありました。珍しい外国の果樹を植え、高価な農業機械を導入して、天皇や政府中枢を招いては開拓使の存在や欧米の近代農業をアピールしようとしたのです。

「ここに文明開化の欧米風が吹きまくっていた」
明治から大正にかけて新聞記者として活躍した篠田鉱造の『明治百話』には、当時のこんな回想が紹介されています(『明治百話』)。当時の青山には、いわば鹿鳴館の産業施設版のようなものが出現していたのです。
ここに麦酒醸造所をつくれば、確かにPRのための演出効果は絶大です。しかし、醸造所開業のために開拓使が雇い入れた醸造技師はドイツ仕込みでした。

ドイツ式の醸造技術でビールをつくるには、東京では難しいことを村橋は知りました。イギリス留学と北海道在勤の経験をもつ村橋は、北海道の気候がイギリスやドイツなど世界的なビール生産国によく似ているのを知っていました。イギリス留学中、本場のビールを体験したこともあるはずです。

黒田やケプロンの政治的パフォーマンスに、村橋は興味はありません。「北海道での勧農(農業振興)が目的で麦やホップを栽培し、それを原料にビールをつくるのだから、醸造所は最初から北海道につくるべきだ。そのほうが費用のムダを省くことにもなる」と村橋は考えました。
農作物についても同じことが言えました。「そもそも開拓使の使命は北海道開拓にある。北海道に新しい農業をおこすためにこそ、さまざまな農産物の試験栽培をする必要があるのだ。よって、北海道で栽培する農産物は最初から現地で試験栽培するべきだ」と村橋は以前から考えていました。 友人のお雇い外国人、牧畜技術者のエドウィン・ダンや、園芸家のルイス・ボーマーの考えも同じでした。

「東京の官園内に」と開拓使が決定した麦酒醸造所の建設予定地の、北海道への変更を村橋は上申します。
「……北海道には建設用の木材も豊富にあり、気候もビール製造に適していて、氷や雪がたくさんあるのも都合がいい。(東京に試験的に建設するのではなく)最初から実地に建設したほうが移設や再建の出費を省くことができる。ついては、来春から北海道に建設することにしたい。建設地については、水利や運送、気温などビール醸造に適する場所を選ぶことが重要だ。どうか評議のうえ、至急、指令をくだされるように」

村橋の提言は認められました。
「麦酒醸造所を北海道に」という村橋の主張とよく似た主旨の書簡を、長官の黒田はドイツ駐在の青木周蔵から以前に受けとっていました。

重大な決意をもってしたためられた1通の文書が、札幌への麦酒醸造所建設を実現させたのです。
国家機関である開拓使の決定をくつがえし、建設地を東京から札幌に変更させた村橋久成。日本のビール産業の祖としての村橋の最大の功績はここにあります。なぜなら、もし開拓使が麦酒醸造所を東京に開業していたら、開拓使ビールは数年の間に跡形もなく姿を消していたか、それとも製法を根本から変えなければならなかったに違いないからです。いずれにせよ、日本のビール産業の成立は大きく立ち遅れていたはずです。

札幌への麦酒醸造所建設には、いくつかの背景がありました。

08. ビール醸造に必要なもの

札幌産ビール誕生のもうひとりのキーマンが登場します。ドイツでビール醸造を学んだ中川清兵衛という人物です。
中川は嘉永元年(1848)、新潟にうまれました。慶応元年、村橋らがイギリスに渡ったその年、横浜の外人商館に勤めていた17歳の少年、中川清兵衛もまた密出国して渡英していました。
明治五年ころ、中川はドイツに移りました。正式な留学生ではありません。学問もこれといった技術もない中川は、ドイツ人家庭の家僕として働いていました。
じつは、その中川清兵衛をみいだし、ビール醸造を学ぶようにすすめて必要な資金を援助し、黒田に紹介したのも青木周蔵でした。

8年、中川が10年ぶりに帰国したときには、青木の紹介で開拓使麦酒醸造所の醸造技師になることがすでに決まっていました。
この年の夏、開拓使東京出張所に姿をみせた中川に採用辞令を手渡したのは、勧業課長の村橋でした。このときの採用にあたっての確認書の実物がのこっています。文面には何度も手が加えられたあとがあり、「契約途中で退職するのはまかりならない」という一項があります。高給を払い醸造人として雇うからには成功にむけて邁進せよ。一歩も後には引かせない、という村橋の激しい意気ごみが伝わってきます。
村橋久成は33歳、中川清兵衛は28歳でした。事業責任者と醸造人の二人三脚がはじまりました。
中川は醸造所の設計とビール醸造に必要な資材の調達、村橋は適地の選定から建築資材の手配、原料の入手、建設費の確保、人員の雇用や配置などに奔走しました。
そのほとんどは東京や横浜で手に入れたり、つくらせたりできましたが、ホップと酵母はこの時点では輸入するしかありませんでした。
それ以外にも、東京や横浜では入手しにくく、海外から輸入するわけにもいかないものがありました。
大量の氷です。

中川がビール醸造を学んだドイツでは、麦汁を摂氏10度以下に冷やして発酵させる下面発酵(または低温発酵)とよばれる方法が用いられていました。発酵が進むとともに酵母が槽の底に沈殿するところから、「下面発酵」と呼ばれました。それにたいし、常温の発酵では酵母は液面に浮上します。これを「上面発酵」または「高温発酵」といいます。イギリスなどではこの方法でビールがつくられました。

中川が学んだドイツ式の醸造法でビールをつくるには、冷温が不可欠だったのです。冷却には大量の天然氷が必要でした。ドイツでも、ビールをつくるためには、冬のあいだに従業員を総動員してあちこちの川や湖から氷を切り出し、運んで貯蔵しなければなりませんでした。暖冬になればもっと寒い地方まで足を運ばなければなりません。また、例年より暑い夏にそなえて、常に余分に氷を蓄える必要がありました。暖冬と暑い夏こそ、醸造技師の最大の悩みのたねでした。

中川からビール醸造についてのさまざまな話を聞くうちに、村橋は、氷と冷涼な気候こそビール醸造の成否の決定的なカギを握っていることを認識しました。
村橋は留学生時代にロンドンの冬を体験しています。それは、出身地の鹿児島はもちろん、東京ともかけ離れたものでした。箱館戦争ではじめて北海道の土を踏み、開拓使に入って以来、七重の官園や札幌の本庁に勤めてきた村橋は、北海道の気候をよく知っていました。北海道は気候条件もイギリスやドイツなどのビール生産国によく似ています。

「とにかく、氷がないことには成功の見通しはたたない。ドイツ仕込みの中川にビールをつくらせるには、東京ではだめだ。開拓使の決定がどうあろうと、この事業を成功させるためには、醸造所は北海道につくるべきだ」

そしてついに村橋は、東京の官園への麦酒醸造所建設、という開拓使の決定事項をくつがえすことを決意したのでした。

09. 麦酒醸造所誕生

ビール醸造は、かつてイギリスでみた近代的な農業の実践であると同時に、生み出された農産物(麦とホップ)からさらにビールという製品をつくり出す西洋流の工業でもありました。そして、製品を商品化して広く販売し、やがては輸出する。これこそ近代産業というものだ、と村橋は考えました。

当時の札幌は、人口わずか3000人たらず。市場もなければインフラもない遠い北の果て。開拓使の本庁があるとはいえ、まわりは荒涼たる原野です。そこにビール工場をつくるのは、冒険どころか暴挙にもおもえます。普通の企業であれば、札幌へのビール工場建設など考えもつかないでしょう。
「だからこそあえて札幌につくるべきなのだ」
と村橋は考えました。
「開拓使の使命は北海道の開拓にある。ビール工場をつくることによって、さまざまな関連施設や交通、輸送手段などの整備が必要になる。それをおしすすめるのが開拓使なのだ。あえて困難な道を選択をすることによってこそ、北海道の開拓にはずみがつくというものだ」

このころ村橋が矢継ぎ早に書いた数多くの稟議書がのこされています。それらの文面からは、まるでなにかにとりつかれたように醸造所建設に没頭する村橋の姿が浮かびあがってきます。
村橋の任務は、麦酒醸造所の建設だけではありませんでした。葡萄酒醸造所と製糸場の建設責任者も村橋でした。

明治9年(1876)5月、村橋は部下の職員や、技術者、職夫をひきつれて開拓使の輸送船、玄武丸に乗りこみました。大麦の栽培をする中国人農夫の監督官と、事務2名、あわせて3名の開拓使職員。鶏卵孵化技術者兼通訳。養蚕のための桑の栽培人2名。麦酒醸造人の中川清兵衛と、葡萄酒醸造人。製酒人夫2名、炊事人夫2名。それに麦酒と葡萄酒の樽職人1名の、13名でした。
東京を発った船は、一路北へとむかいました。

札幌のまちは、豊かに水をたたえていました。氷の心配もありません。
原料の大麦は、とりあえず屯田兵移民が栽培したものを買い上げれば手に入ります。札幌官園(現在の道庁周辺にあった)では、明治4年(1871)からすでにアメリカの大麦、小麦、裸麦の試験栽培をおこない、屯田兵の入植地に種子を配布していました。札幌官園では、8年には110石、9年には195石の麦を収穫しています。
ホップとビール酵母は、初年度はすべて輸入にたよるしかありませんでした。

秋の麦の収穫期前までの完成をめざして6月に着工された醸造所の建物は、8月中にはほとんど完成しました。
8月末には、太政大臣・三条実美ほか、参議の寺島宗則、山県有朋、伊藤博文がここを視察に訪れています。

醸造器械のとり付けも終えて、醸造所が竣工したのは9月8日のことでした。
そして9月23日、麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、そして製糸場の三つの工場の合同開業式がとりおこなわれました。
それに先立ち、9月21日には最初の麦が仕込まれました。醸造を急ぐ中川の進言を村橋が認めるかたちで、開業式を待たずに作業を開始したのです。

麦酒醸造所の生産能力は250石(45kl)でした。大ビン(633ml)に換算しておよそ7万1000本分になります。わずか7万1000本、といったほうがいいかもしれません。
というのは、この数年、全国各地に誕生している地ビール工場の年間生産量は「60kl以上」。つまり、大ビンに換算して、最低でもおよそ9万5000本分に相当します。開拓使がつくったビール工場は、生産量が現在のわが国のもっとも小規模な地ビール工場の生産量にも満たない、ミニブルーワリー、というよりマイクロブルーワリーといったほうがふさわしい規模のものでした。

10. 明治のビール

醸造所の完成と、最初のビールの仕込みを見届けて、村橋は東京に転任しました。やがて札幌から届くはずの製品の受け入れ体勢を整えるために奔走しなければならなかったのです。

当時のビール事情は現在とは大きくことなっています。日本人のほとんどは、ビールを飲んだこともなければ、みたこともありません。ビールは外国人やごくかぎられた階層の高級な嗜好品でした。ちなみに、明治10年、最初にできたビールの払い下げ(販売)価格は、1ビン16銭、1ダースで1円60銭でした。いまの金額にすれば、1本3000円ほどにも相当します。それほど高価なものを買える人が当時の北海道にそういるわけがありません。つまり、ビールの市場が地場にはなかったのです。つくったビールのほとんどすべてを東京に送る必要がありました。

しかし、そのころ北海道から東京まで物を運ぶのは、いまでは想像もできないほど困難な作業でした。しかも、ビールは一種の生きものです。ビールを詰めるビンの確保からはじまって、輸送手段、冷蔵用の氷などあらゆる条件の整備が必要でした。道なき道を一歩一歩かき分けて進むようなものです。
ビンひとつとってみても、当時ビールビンの工場などあるはずもありません(札幌にビールビンの工場ができたのは明治33年のことです)。東京や、神戸・横浜・函館などの港町に外国人が持ちこんだビールやワインの使用済みのビンを再利用するしかありませんでした。開拓使は1本1銭ほどでかたっぱしからビンを買い集めました。

一方、札幌では中川が醸造に苦心していました。暖冬と、ドイツからとり寄せた酵母の品質がよくないため、発酵がおもうように進まないのです。
翌10年2月2日、札幌本庁の堀基から東京出張所の西村貞陽あてに至急電報が打たれています。

至急山梨の醸造所へ館員を出張させて注文させ、質のよき種(酵母)5斗を(雑菌のない)よき樽に詰めて至急送るべし

村橋は、今度は酵母入手のために奔走します。
失敗するわけにはいきません。醸造所の建設地を東京から札幌へと変更させたのは自分です。だからこそ、どんなことがあっても成功させなければなりません。
半月後の2月17日、村橋は札幌本庁の佐藤秀顕から電報を受けとります。

過日報知せし麦酒、昨日より盛んにわきはじめたり。安心せよ。委細は上局へ報知競せり

「ビールが発酵しはじめたので安心せよ」というものでした。
ちなみに、初年度のビールの生産量は、250石の生産能力にたいして100石(18kl)、大ビンに換算しておよそ2万5000本分でした。フル生産こそできませんでしたが、品質はほんものでした。日本ではじめての本格的なビール産業の誕生です。開拓使設置から7年。あたらしい近代的な産業が芽をふきました。

「冷製札幌麦酒」と名づけられた札幌産のビールがはじめて東京に到着したのは、10年6月のことでした。
開拓使の成果であるビールの到着を、長官の黒田清隆は待ち焦がれていました。黒田はさっそく、三条実美をはじめ、西南戦争のため京都の臨時本営で総指揮をとっていた大久保利通ら政府首脳にビールを届けさせました。開拓使の成果を、ここぞとばかりに披露したかったのです。
12本入り1箱のビールには、黒田の指示でそれぞれ次のような概略書が添えられていました。

一、醸造用の麦は米国種を培養し収穫せしものを用ゆ。
一、醸法はベルリン「チボリティ」醸造所において麦酒醸造の免許を得し中川清兵衛なるもの、これを醸造す。
一、通常、舶載のイギリスビールの急激なるものと異なり、その味、冷淡なるを以って英語でこれを冷製麦酒、あるいは日耳曼麦酒と称す。

ところが、いちばん肝心の内務卿・大久保利通に送られたビールは、12本とも、ビンのなかに一滴のビールものこっていませんでした。黒田は大恥をかくはめになりました。面子まるつぶれです。

当時は王冠などありません。買い集めたビンは不揃いで、口径もまちまちでした。コルクで閉栓したものの、とり付けがしっかりしていないために、長旅のあいだに内圧によってコルクが抜け、中身が噴き出してしまっていたのです。
京都本営から開拓使東京出張所に至急電報が入りました。

過日御回しの麦酒、コロップ取り付けかた不十分なるゆえ、内務卿(大久保)へ送りたる分、12本とも噴き出し、1滴ものこりなし。その他も多く噴き出したり。はなはだ不都合なり。村橋へ厳達、以後のところ注意されよ。

「村橋へ厳達」と、ここで村橋が名指しにされていることからも、村橋がビール醸造にいかに大きな責任を負っていたかがわかります。

11. 実ニ最好ノ製法に候

では、肝心の札幌産の最初のビールの味や品質はどうだったのでしょう。
当時のビールの原料の使用量やアルコール度数などがしるされたレシピがのこっています。それによれば、ホップがやや多めに使われているため苦みが強く、麦100%の、コクのある本格的なドイツビールだったといいます。

開拓使ビールの品質について、ブラキストンはこう評しています。

実ニ最好ノ製法に候

そして、
「当地(函館)においても多少売りさばくことができます。長崎や、上海への輸出もできるでしょう。ただし、遠い海外に輸出するためには、貯蔵の成否を実験する必要があります。日本人むけにはビン詰で、外国人には樽詰で販売し、(使用後の)容器は定価を決めて買い戻してはどうでしょう」
と、販売とビンの回収方法についてもアドバイスしています。
長期間の保存と輸送に十分耐えられるだけの樽詰めの技術があれば、ブラキストン・マール商会をつうじて、札幌産ビールの上海への輸出が実現していたかもしれません。

ついでに、翌11年には、札幌農学校教師のペンハローが、
「ビールの色は鮮麗で光輝いているが、やがて赤みを帯び、若干の時間がたつと泡が徐々に上昇する。苦みもよいし、なによりも2回にわたって覚える芳香はもっとも愉快である」
と賛辞を送っています。

同じビールを東京で試飲したコルシェルトも、
「札幌で醸造された冷製ビールはじつに良好で、完全といえる。横浜醸造所のビールよりはるかに良くなっている」
と、製法の改良を評価しています。「横浜醸造所」とは、アメリカ人ウィリアム・コープランドが、居留地外国人の消費をみこんで横浜に開設した、スプリング・バレー・ブルーワリーのことです。

いよいよ商品化への挑戦です。
最初の札幌産ビールは、明治10年(1877)9月、大々的に売り出されました。
10月には第1号のラベルも刷りあがりました。村橋以下勧業課の職員が知恵をしぼって図案を作成しました。ラベルには開拓使のシンボルマーク「五稜星」が描かれ、その下に「サッポロラガービール」と書かれています。

このラベルの図版原稿がいまものこっています。星を描くためにコンパスでひいた線や中心の針穴、鉛筆の下書きや、文字を修正した形跡などがそのままのこっていて、苦心のあとがうかがえます。(写真)

関係者を一喜一憂させながらも、「冷製札幌麦酒」はしだいに人びとに知られるようになっていきました。
入手に苦心したホップは、醸造所のそばに5500坪のホップ園が設けられ、そこに開業の翌年春、東京から米国種644株とドイツ種201株、翌11年にはさらに米国種6773株が移植され、順調に生育しました。12年には第1から第4まで、合計1万4265坪のホップ園がととのいました。ボーマーが栽培の指導にあたりました。
輸送も改善が加えられ、積出港だった小樽の埠頭そばの斜面を掘りこんで、直射日光があたらない保管場所をつくりました。
味や品質にたいする評判も高まっていきました。
13年には、醸造所が大幅に増築され、生産量は開業時の2倍にはねあがりました。

またこの年、開拓使は中川清兵衛がビール醸造を学んだドイツの醸造会社に札幌産ビールを送り品評を依頼しています。翌年になってから、ドイツから一通の書簡が届きました。
「冷製札幌麦酒はホップが少し過分だが、ともかく、やわらかなエールのような美味をおびた上製のビールである。また、ホップはアメリカ産によく似ていて、その品質も良好で、ドイツ産に比べても少しも劣るところはない」
品評の結果は上々でした。

14年、東京・上野で内国勧業博覧会が開かれました。
この博覧会は、全国のすぐれた産物や発明品を集めて展示し、広く人びとにアピールして産業の振興をはかろうと、大久保利通による殖産興業政策の目玉のひとつとして、10年にはじめて開かれました。第1回は出品点数8万以上、入場者数45万人という大盛況でした。2回目にあたるこの年の博覧会には82万3000人が入場し、出品点数は33万点にのぼりました。この博覧会に初めて出品された「冷製札幌麦酒」は、有功賞を受賞しています。

このころには、原料用の麦やホップもすべて北海道産でまかなえるようになっていました。ビール生産はいよいよ軌道に乗りはじめました。宣伝の効果もあってにわかに人気が高まり、売り切れが続出するほどでした。

そうしたさなかに、村橋は突然開拓使に辞表を出します。

12. 開拓史の挫折

西南戦争をさかいに、開拓使をとりまく状況は一変していました。
この戦争に費やした膨大な戦費が、もともと苦しかった明治政府の財政を一気に疲弊させました。
明治13年(1880)、政府は負債の利子だけで国庫収入の3割をこえるという深刻な財政危機に見舞われていました。しかも、年間収入の3倍近い1億5000万円もの不換紙幣を乱発していたのです。

財政的な要因ばかりではありません。
西南戦争が終結した翌年の明治11年5月、参議兼内務卿として新政府の権力を掌握し、殖産興業政策としての北海道開拓事業のバックボーンとなってきた大久保利通が、登庁途中、石川県士族・島田一郎ら6人の刺客に襲われて斬殺されました。
神にも近い存在として崇拝していた西郷をうしない、ついに大久保までうしなった長官・黒田清隆の失意は、はかりしれないものがありました。

逆風にさらに追い打ちをかけるように、北海道官有物払い下げ問題が巻きおこります。
村橋が開拓使を去ったのは、この空前のスキャンダルが巻きおこる直前の14年5月のことでした。
村橋はすべてを知っていました。
この月、払い下げ物件の報告が黒田に命じられました。開拓使の廃止の事実上の最終通告です。
その結果公表された払い下げ物件は、
東京は、村橋がいた函崎物産取扱所や、官舎をはじめ、倉庫とそれらの地所。玄武丸、函館丸など開拓使が所有する輸送船六隻。大阪は、貸付所所属の官舎・倉庫・地所。函館は、船場町の地所と、固定備倉および地所。小樽は、収税庫とその敷地。ほかに根室別海缶詰所。厚岸缶詰所。択捉ラッコ漁所と牧馬場などでした。
はたして札幌は……。
札幌牧羊場、真駒内牧羊場、葎草園、桑園と蚕室、葡萄園、そして、麦酒醸造所がふくまれていました。

翌六月には、東京出張所が廃止されます。東京出張所廃止のあとは、札幌本庁への勤務が待っていました。しかし、翌年には開拓使そのものが廃止になるのです。
「同じことだ」と村橋はおもいました。
村橋にとってはなによりも、開拓使の廃止そのものがゆるせませんでした。
いまやっと芽吹いたあたらしい産業の芽を、なぜ摘みとり放棄するのか。こころざしは、どこへいってしまったのか。倒幕・維新、そして開拓とあたらしい国づくりにささげられてきた無数の命は、いったいなんだったのか。なんのための開拓使だったのか。
村橋は激しい怒りをぶつけて開拓史を辞職します。

こうして村橋は開拓使を去り、やがて歴史の舞台から姿を消しました。
いつしか村橋は、雲水のような身なりに姿を変えて各地を行脚していました。雲水とは、行く雲、流れる水のように、道をもとめて諸国を遍歴する僧のことです。
故郷を捨て、家族を捨て、いっさいの自分を捨て去って、病身をかかえたままこの国をさまよい、開拓使辞職から11年後の明治25年、神戸の路上で病に行き倒れているのを発見され、その3日後に息を引き取りました

13. 麦酒醸造所のゆくえ

村橋と中川が心血をそそいだ「開拓使麦酒醸造所」は、開拓使の廃止後、複雑な足どりをたどっています。

明治15年、開拓使廃止と同時に、農商務省工務局所管となり、北海道事業管理局札幌工業事務所の管理下におかれて「札幌麦酒醸造場」と改称されました。
その後明治19年1月、新たに設立された北海道庁の所管となり、同年11月、民間に払い下げられました。
このころのビール工場の様子を紹介した新聞記事があります。

……当札幌にて有名なるものは麦酒工場にて、我々も望みを属するものはこの醸造所なり。……目下醸造高1000石、1ダース原価1円60銭なり。これを同所も飲み試むるに、その味之美なること敢えてストックホールに譲らず。

と賞賛しています。といっても、「醸造高1000石」はちょっとオーバーです。このころの実際の生産量はせいぜい500石でした。それでも、大びんに換算して28万本に相当します。文中の「ストックホール」はストックビールのことで、当時人気が高かった銘柄です。
いずれにしても、このころにはビール(工場)がすっかり札幌の名物になっていたのはたしかです。
ところが、大きな問題がおこっていました。
このころ、札幌産ビールは一時的に東京から姿を消していました。

しかれども惜しむべし、

とこの記事はつづきます。

いかなる化学的の変化にや、これを市に出して数月を経る時は、瓶底に滞を生じ、水飴のごとくなるの憂いあり。故にこれを遠地に輸送販売するを得ずして、おおむね札幌、小樽、函館等当地地方及び南部津軽辺にのみ売り捌くのみなりという。東京に見ざるなりはけだしこの故なり。しかれども主任者は目下その原因取調べ中なれば、遠からず精醸の方法を得るならんといえり。(明治19年9月11日付『東京日日新聞』)
製造後数カ月経つと、ビールが変質したため、札幌や小樽・函館、東北地方の一部では販売していましたが、東京へは出荷できずにいたのです。
「いかなる化学的の変化にや」とありますが、変化の原因は「化学的」なものではなく、生物学的なものでした。

パスツールによって、熱処理による科学的な殺菌法(パストリゼーション)が発見され、その技術がドイツで確立したのは、中川が日本に帰国した直後のことでした。中川は熱処理が殺菌に有効なことを知ってはいたにちがいありません。しかし、あくまでも自分がドイツで学んだビールの製法に忠実であろうとしたのでしょう。ドイツ仕込みの技術者としての誇りが、熱処理という方法をうけいれませんでした。
とはいえ、醸造量は飛躍的に増えています。中川の製法では、つくったすべてのビールの品質を一定に保つことはむずかしかったのにちがいありません。新聞記事から、中川の苦渋が伝わってきます。

明治21年、札幌麦酒会社が設立されたのちも、中川は醸造人としてビールをつくりつづけました。中川はあいかわらず非熱処理製法にこだわりました。しかし、札幌麦酒醸造場時代に道庁に雇われてやってきたドイツ人技師、マックス・ポールマンは、熱処理と、それによる品質の安定性を誇示しました。
ビールの醸造量は増えつづけ、やがて中川の技術の限界をこえました。中川は、24年2月、ついに札幌麦酒会社を退職しました。村橋によって開拓使に採用されたとき、27歳だった中川は、このとき43歳になっていました。

退職後、中川は小樽で旅館を経営し、静かに余生を送りました。
この世を去るとき、見守る家族に、末期の水の代わりにビールをもとめたといわれています。

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