BEER BREWERY

明治9年(1876)。サッポロビールの歴史は、ここから始まった。

明治政府は、明治2年(1869)北海道の開拓と近代国家建設のために「開拓使」を設置。
アメリカなどから招いた技術者の指導のもと新たな産業を数多く興していきました。
農業と勧業の柱になったのが、ビール造り。
原料の大麦・ホップの調達、低温で発酵・熟成させるビール造りには欠かせない氷が豊富に手に入る北海道は、ビール造りに必要な条件に恵まれていたことがその理由でした。
明治9年(1876年)ドイツで醸造法を学んだ日本人技術者らも集まってサッポロビールの前身となる開拓使麦酒醸造所が誕生。
日本人の手によって本格的なドイツタイプのビールが造られた初めての地です。
現在サッポロファクトリーとなり「札幌開拓使麦酒醸造所」はその一角で当時の製法にならったビール造りを続けているブルワリーです。

  1. 開拓使麦酒醸造所

    始まりは、開拓使によってこの地に設立された官営の「開拓使麦酒醸造所」です。

    明治の初め、北海道開拓のために政府により設置された開拓使は、北海道の産業振興を図るため各地に洋式の官営農場や、各種の官営工場(製糸、製糖、製麻、葡萄酒醸造、味噌醤油醸造、缶詰製造他)を設立しました。

    その一つが「開拓使麦酒醸造所」です。北海道の冷涼な気候はビール醸造に適していること、また北海道ではビールの原料である大麦、ホップの栽培が可能であること等がその背景にありました。

    開拓使麦酒醸造所は明治9(1876)年9月23日に正式に開業しました。当時日本には外国人が設立したビール醸造所や、個人が作ったごく小規模の醸造施設はありましたが、本格的な設備を持ち、しかも日本人の手だけで作られたのは開拓使麦酒醸造所が初めてでした。現在に繋がる、サッポロビールのルーツです。開拓使は数多くの事業を行いましたが、その中で21世紀の今日まで存続しているのはサッポロビールと、札幌農学校の後身である北海道大学のみです。

    開拓使麦酒醸造所
  2. 創業の功労者「村橋むらはし 久成ひさなり」と「中川なかがわ 清兵衛せいべい

    開拓使麦酒醸造所の建設と運営、そしてビール醸造に大きな役割を果たしたのが村橋久成と中川清兵衛です。

    村橋久成は薩摩藩の殿様である島津家に連なる名門の薩摩藩士で、幕末に藩命により英国に留学、帰国後は戊辰戦争に従軍して各地を転戦、最後の箱館戦争では旧幕府軍に降伏を勧告する役目を果たし、戦争を終結へと導きました。その後、後に開拓使長官になる黒田清隆の要請により開拓使に出仕、七飯の官営農場や琴似屯田兵村建設等に携わった後、麦酒醸造所建設の実質的な責任者となり、中川清兵衛を醸造技師として雇用する等、建設とその後の経営の中心的役割を果たしました。

    中川清兵衛は越後与板(現新潟県長岡市)の商家の出身で、幕末に密航によりヨーロッパへ渡り、ビールの本場であるドイツ・ベルリンのビール工場でビール醸造の技術を修得、日本人初のビール醸造技師となりました。帰国後、村橋久成により、開拓使麦酒醸造所のビール醸造の責任者として雇用されます。

    醸造が開始された当初は発酵がうまく進まない等、苦難の連続でしたが、村橋と中川の二人三脚で開業の翌年(明治10)5月には初めてのビール醸造に成功、製品は明治天皇にも献上されました。その年の9月には「札幌冷製麦酒」の名で一般販売も行われ、品質は高い評価を受けました。「札幌冷製麦酒」は次第に有名となり、販路も拡大、製造量も増えていきました。

    創業の功労者「村橋久成」と「中川清兵衛」
  3. 開拓使麦酒醸造所からサッポロビールへ

    明治15(1882)年2月、開拓使が廃止されると、麦酒醸造所は農商務省の所管となり、その後北海道庁に移管されます。明治19(1886)年に大倉組商会(現大成建設)に払下げられた後、翌明治20(1887)年に渋澤栄一らが中心となり「札幌麦酒」が設立され、民間のビール会社としてのスタートを切りました。

    札幌麦酒はその後企業合同により「大日本麦酒札幌工場」となり、第二次大戦後は「日本ビール札幌工場」を経て「サッポロビール札幌工場」となります。時代と共に会社名は移り変わりましたが、この地はビール工場としての歴史を刻み続け、札幌市民からは親しみを込めて「ビールさん」と呼ばれました。ビール醸造は札幌を代表する産業のひとつとなり、世界の三大ビール銘醸地を表す、「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」というキャッチコピーも生まれました。

    開拓使麦酒醸造所からサッポロビールへ
  4. サッポロファクトリーの誕生

    昭和の終り頃になると札幌市の人口は160万人を超え、なお増加を続けていました。

    当時、札幌駅前から大通・ススキノにかけての創成川西地区は札幌の都心としてデパートなどの商業施設やオフィスビルが多くあり、賑わいを見せていた一方、札幌工場が位置する創成川東地区は、人が集まる施設は少なく、将来に向けて発展の余地が大きい地域でした。札幌市にとって、都心にも近い創成川東地区の再開発による活性化は時代の要請となりつつありました。

    地域再開発の気運が高まる中、サッポロビールは札幌工場を恵庭市に移転し、発祥の地であるこの地を自社の手で商業施設として再開発することを決定します。

    昭和が終わり、元号が変わった平成元(1989)年6月、恵庭市に北海道工場が竣工し、札幌工場は開拓使以来113年間にわたるビール工場としての役割を終えました。

    4年後の平成5(1993)年4月9日、創成川東地区では初めてとなる大規模複合商業施設としてオープンしたのが「生活工房・サッポロファクトリー」です。

    「サッポロファクトリー」は、札幌市や地域の方々の要望を受け、工場としての歴史が刻まれた赤レンガや煙突を大切に保存・再活用する一方、全天候型のアトリウム室内公園や広い公開空地を備え、歴史的景観と新しいものが融合した施設であることが大きな特徴のひとつとなっています。

    サッポロファクトリーの誕生