BEER STORY

01開拓使のはじまりと、札幌の誕生

「開拓使時代」とは、明治2年(1869)から明治15年(1882)までの13年間をさします。
明治2年は、「北海道」と「開拓使」が誕生した年です。この年5月、箱館戦争が終結し、新政府がやっと本格的に始動しました。7月、長い間「蝦夷地」と呼ばれていたこの北の島が「北海道」と改称され、翌8月、開拓使が設置されました。
肥前(現在の佐賀県)出身の開拓判官・島義勇が札幌本府建設のため200人の部下や人夫をひき連れて札幌入りしたのは、この年の暮れのことでした。

このときの札幌中心部の人口は「2戸7人」と記録されています。近郊の住民はアイヌの人びとも含めてせいぜい100人ばかり。鹿や熊や狼がうろつく、太古のままの原野でした。
島判官は、札幌建設着手にあたり、札幌入りの直後、円山の小高い丘のうえから広大な石狩平野を見渡したといいます。
島がみたのは、息を呑むような遠大な空間でした。どこまでもひろがる鬱蒼とした原始林と白一面の大平原、巨大なキャンバスのような石狩平野です。

札幌市役所のロビーに、島義勇の立像があります。
立像の下には、島が詠んだ「五州第一」と題された漢詩が刻まれています。その中で「将来ここに世界的な大都市が出現するだろう」と島は予言しています。そして、予言は現実となりました。

島が見渡した大平原こそ、北海道開拓事業の“原風景”であり“ビジョン”でした。開拓使の使命と意志は、きわめて視覚的に体現しえたのです。「われわれは、いま眼前に広がるこの大平原を拓く。それが北海道開拓の第一歩である」と。

島義勇の銅像
島義勇の銅像
「五州第一」の漢詩
「五州第一」の漢詩

島はその拠点となる札幌本府建設の基本構想を描きました。
それは、豊平川の西岸に300間(約550メートル)四方の本庁敷地をおき、その南正面に420間(約770メートル)四方の広場をつくって、京都を模して碁盤の目に区切り、町を設けるという壮大なものでした。島は、冬のさなか本府建設をすすめました。しかし、札幌滞在わずか2カ月にして更迭され、こころざしなかばにして帰京します

しかし、島の本府建設の夢は、開拓判官・岩村通俊や、開拓次官(のち長官)黒田清隆へとひきつがれていきました。
岩村の構想は、島のそれよりさらにひとまわり大きいものでした。創成川を境に東西を分け、幅60間(108メートル)の大通で南北を分けて、60間四方に区切った整然とした市街地を建設しようというものでした。

現在の札幌市街中心部の原形がこうしてうまれました。