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02開拓使通り

いつのころからか「開拓使通り」とよばれるようになった通りがあります。

北海道のシンボル、道庁赤れんが(北海道庁旧本庁舎)の正門からまっすぐ東にのびる、現在の北3条通りです。
むかし、「札幌通り」ともよばれていた、この通りの中心線は、赤れんがの建物の中心とぴったりと重なっています。
道庁正門前の通りは、大正13年に、木塊(もっかい)とよばれる木製のレンガが敷きつめられ、車道と歩道の境に銀杏(いちょう)の並木が植えられた、北海道最初の舗装道路です。

開拓使通り(北三条通り)
開拓使通り(北三条通り)

この通りをまっすぐ東にむかい、創成川をわたると、かつて開拓使によって建設された事業所群の跡地になります。サッポロファクトリーの周辺、東2~5丁目あたりにかけてがそうです。
いまはビルやマンションが建ち並ぶふつうの市街地になっていますが、よくみると、ところどころに石造りの倉庫や、古い民家や商店、小さな町工場がのこっていたりして、わずかに昔の面影をしのばせています。

明治初期、創成川の東側一帯のこのあたりに、開拓使は、木工、機械、馬具、製網、製紙、缶詰、製油、味噌醤油醸造、製粉、製糸などの大小さまざまな工場からなる事業所群を造成しました。いまふうにいえば、「工業団地」、それも、当時の最先端の技術を集積した、“明治のハイテクパーク”です。

北海道への移民と開拓が本格化したのは、明治20年代以降のことです。開拓使の時代(明治2年から15年まで)は、北海道開拓そのものというより、本格的に開拓にとりかかるためのインフラ(社会基盤)整備の時代でした。開拓使の事業所群は、北海道開拓をすすめるための、いわばベースキャンプとなるものでした。

鬱蒼とした原始林を切り開き、開墾をすすめるには、そのための農具はもちろん、開拓者の衣食住を満たす生活用品を確保しなければなりません。当時の北海道は人もまばらで、必要な物資は本州から持ちこむか、自分たちの手でつくり出すしかありません。また、できた農産物を本州に送り出すためには、さまざまな加工施設や、製品を搬出するための輸送路が必要でした。建築資材となる木材を運ぶにも加工するにも、また、工場を稼働させるためにも、大量の用水や、機械の動力源として水資源が不可欠でした。

創成川以東側は工業地帯にすべし」と進言したのは、開拓使の招きで明治4年に来日し、北海道を視察したケプロンでした。
幕末、大友亀太郎が築いた大友堀(いまの創成川)と、豊かに水をたたえて流れる豊平川にはさまれ、さらに、数多くのメム(アイヌ語で『わき水』を意味する)からなる伏古川(フシコサッポロ川)の源流地帯にあたるこの地域一帯は、ベースキャンプの立地条件としては最適でした。

ケプロンの進言を開拓使は受け入れ、実行しました。開拓使は「勧業」「勧農」を旗印に、創成川の東岸地域一帯に、欧米から取り入れた当時の最先端の技術を集積した一大工業施設群を建設しました。それは、広大な北海道の開拓をすすめるためのベースキャンプであると同時に、日本の近代的な産業おこしのシンボルゾーンといえるものでした。
北3条通りは、開拓使本庁舎とこの事業所群とを結ぶ、開拓使時代の歴史のメインストリートでした。それが、この通りが「開拓使通り」とよばれるようになった、ゆえんです。