BEER STORY

07麦酒醸造所は札幌につくるべし

いまでこそ、「札幌」といえば「ビール」というくらいに、札幌のまちとビールの結びつきは強くて深い。開拓使のビール工場がそのルーツであることはいうまでもありません。ところが、じつは開拓使はもともと、札幌に麦酒醸造所を建てるつもりはなかったのです。

開拓使が麦酒醸造所の建設を決定したのは、明治8年(1875)のことです。建設地は札幌ではなく、東京・青山にあった官園でした。
青山に官園がつくられたのは明治4年のことでした。
官園はいまでいう農業試験場のようなものでした。その建設・事業責任者に、村橋久成は任命されました。

開拓使は、「将来北海道で栽培する農作物は、まず東京の官園で試験栽培し、成功のメドがついたら北海道に移植しよう」と考えていました。輸入種をそのまま北海道に移すと、気候・風土のちがいでいい結果につながらないかもしれない、というのです。

欧米から輸入された種や苗を、官園に植えた理由は、そればかりではありません。青山にあった官園は、開拓使のショールームのようなものでした。そこには、黒田とケプロンの政治的なもくろみがありました。珍しい外国の果樹を植え、高価な農業機械を導入して、天皇や政府中枢を招いては開拓使の存在や欧米の近代農業をアピールしようとしたのです。

「ここに文明開化の欧米風が吹きまくっていた」
明治から大正にかけて新聞記者として活躍した篠田鉱造の『明治百話』には、当時のこんな回想が紹介されています(『明治百話』)。当時の青山には、いわば鹿鳴館の産業施設版のようなものが出現していたのです。
ここに麦酒醸造所をつくれば、確かにPRのための演出効果は絶大です。しかし、醸造所開業のために開拓使が雇い入れた醸造技師はドイツ仕込みでした。

ドイツ式の醸造技術でビールをつくるには、東京では難しいことを村橋は知りました。イギリス留学と北海道在勤の経験をもつ村橋は、北海道の気候がイギリスやドイツなど世界的なビール生産国によく似ているのを知っていました。イギリス留学中、本場のビールを体験したこともあるはずです。

黒田やケプロンの政治的パフォーマンスに、村橋は興味はありません。「北海道での勧農(農業振興)が目的で麦やホップを栽培し、それを原料にビールをつくるのだから、醸造所は最初から北海道につくるべきだ。そのほうが費用のムダを省くことにもなる」と村橋は考えました。
農作物についても同じことが言えました。「そもそも開拓使の使命は北海道開拓にある。北海道に新しい農業をおこすためにこそ、さまざまな農産物の試験栽培をする必要があるのだ。よって、北海道で栽培する農産物は最初から現地で試験栽培するべきだ」と村橋は以前から考えていました。 友人のお雇い外国人、牧畜技術者のエドウィン・ダンや、園芸家のルイス・ボーマーの考えも同じでした。

「東京の官園内に」と開拓使が決定した麦酒醸造所の建設予定地の、北海道への変更を村橋は上申します。
「……北海道には建設用の木材も豊富にあり、気候もビール製造に適していて、氷や雪がたくさんあるのも都合がいい。(東京に試験的に建設するのではなく)最初から実地に建設したほうが移設や再建の出費を省くことができる。ついては、来春から北海道に建設することにしたい。建設地については、水利や運送、気温などビール醸造に適する場所を選ぶことが重要だ。どうか評議のうえ、至急、指令をくだされるように」

村橋の提言は認められました。
「麦酒醸造所を北海道に」という村橋の主張とよく似た主旨の書簡を、長官の黒田はドイツ駐在の青木周蔵から以前に受けとっていました。

重大な決意をもってしたためられた1通の文書が、札幌への麦酒醸造所建設を実現させたのです。
国家機関である開拓使の決定をくつがえし、建設地を東京から札幌に変更させた村橋久成。日本のビール産業の祖としての村橋の最大の功績はここにあります。なぜなら、もし開拓使が麦酒醸造所を東京に開業していたら、開拓使ビールは数年の間に跡形もなく姿を消していたか、それとも製法を根本から変えなければならなかったに違いないからです。いずれにせよ、日本のビール産業の成立は大きく立ち遅れていたはずです。

札幌への麦酒醸造所建設には、いくつかの背景がありました。