BEER STORY

09麦酒醸造所誕生

ビール醸造は、かつてイギリスでみた近代的な農業の実践であると同時に、生み出された農産物(麦とホップ)からさらにビールという製品をつくり出す西洋流の工業でもありました。そして、製品を商品化して広く販売し、やがては輸出する。これこそ近代産業というものだ、と村橋は考えました。

当時の札幌は、人口わずか3000人たらず。市場もなければインフラもない遠い北の果て。開拓使の本庁があるとはいえ、まわりは荒涼たる原野です。そこにビール工場をつくるのは、冒険どころか暴挙にもおもえます。普通の企業であれば、札幌へのビール工場建設など考えもつかないでしょう。
「だからこそあえて札幌につくるべきなのだ」
と村橋は考えました。
「開拓使の使命は北海道の開拓にある。ビール工場をつくることによって、さまざまな関連施設や交通、輸送手段などの整備が必要になる。それをおしすすめるのが開拓使なのだ。あえて困難な道を選択をすることによってこそ、北海道の開拓にはずみがつくというものだ」

このころ村橋が矢継ぎ早に書いた数多くの稟議書がのこされています。それらの文面からは、まるでなにかにとりつかれたように醸造所建設に没頭する村橋の姿が浮かびあがってきます。
村橋の任務は、麦酒醸造所の建設だけではありませんでした。葡萄酒醸造所と製糸場の建設責任者も村橋でした。

明治9年(1876)5月、村橋は部下の職員や、技術者、職夫をひきつれて開拓使の輸送船、玄武丸に乗りこみました。大麦の栽培をする中国人農夫の監督官と、事務2名、あわせて3名の開拓使職員。鶏卵孵化技術者兼通訳。養蚕のための桑の栽培人2名。麦酒醸造人の中川清兵衛と、葡萄酒醸造人。製酒人夫2名、炊事人夫2名。それに麦酒と葡萄酒の樽職人1名の、13名でした。
東京を発った船は、一路北へとむかいました。

札幌のまちは、豊かに水をたたえていました。氷の心配もありません。
原料の大麦は、とりあえず屯田兵移民が栽培したものを買い上げれば手に入ります。札幌官園(現在の道庁周辺にあった)では、明治4年(1871)からすでにアメリカの大麦、小麦、裸麦の試験栽培をおこない、屯田兵の入植地に種子を配布していました。札幌官園では、8年には110石、9年には195石の麦を収穫しています。
ホップとビール酵母は、初年度はすべて輸入にたよるしかありませんでした。

秋の麦の収穫期前までの完成をめざして6月に着工された醸造所の建物は、8月中にはほとんど完成しました。
8月末には、太政大臣・三条実美ほか、参議の寺島宗則、山県有朋、伊藤博文がここを視察に訪れています。

醸造器械のとり付けも終えて、醸造所が竣工したのは9月8日のことでした。
そして9月23日、麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、そして製糸場の三つの工場の合同開業式がとりおこなわれました。
それに先立ち、9月21日には最初の麦が仕込まれました。醸造を急ぐ中川の進言を村橋が認めるかたちで、開業式を待たずに作業を開始したのです。

麦酒醸造所の生産能力は250石(45kl)でした。大ビン(633ml)に換算しておよそ7万1000本分になります。わずか7万1000本、といったほうがいいかもしれません。
というのは、この数年、全国各地に誕生している地ビール工場の年間生産量は「60kl以上」。つまり、大ビンに換算して、最低でもおよそ9万5000本分に相当します。開拓使がつくったビール工場は、生産量が現在のわが国のもっとも小規模な地ビール工場の生産量にも満たない、ミニブルーワリー、というよりマイクロブルーワリーといったほうがふさわしい規模のものでした。