BEER STORY

11実ニ最好ノ製法に候

では、肝心の札幌産の最初のビールの味や品質はどうだったのでしょう。
当時のビールの原料の使用量やアルコール度数などがしるされたレシピがのこっています。それによれば、ホップがやや多めに使われているため苦みが強く、麦100%の、コクのある本格的なドイツビールだったといいます。

開拓使ビールの品質について、ブラキストンはこう評しています。

実ニ最好ノ製法に候

そして、
「当地(函館)においても多少売りさばくことができます。長崎や、上海への輸出もできるでしょう。ただし、遠い海外に輸出するためには、貯蔵の成否を実験する必要があります。日本人むけにはビン詰で、外国人には樽詰で販売し、(使用後の)容器は定価を決めて買い戻してはどうでしょう」
と、販売とビンの回収方法についてもアドバイスしています。
長期間の保存と輸送に十分耐えられるだけの樽詰めの技術があれば、ブラキストン・マール商会をつうじて、札幌産ビールの上海への輸出が実現していたかもしれません。

ついでに、翌11年には、札幌農学校教師のペンハローが、
「ビールの色は鮮麗で光輝いているが、やがて赤みを帯び、若干の時間がたつと泡が徐々に上昇する。苦みもよいし、なによりも2回にわたって覚える芳香はもっとも愉快である」
と賛辞を送っています。

同じビールを東京で試飲したコルシェルトも、
「札幌で醸造された冷製ビールはじつに良好で、完全といえる。横浜醸造所のビールよりはるかに良くなっている」
と、製法の改良を評価しています。「横浜醸造所」とは、アメリカ人ウィリアム・コープランドが、居留地外国人の消費をみこんで横浜に開設した、スプリング・バレー・ブルーワリーのことです。

いよいよ商品化への挑戦です。
最初の札幌産ビールは、明治10年(1877)9月、大々的に売り出されました。
10月には第1号のラベルも刷りあがりました。村橋以下勧業課の職員が知恵をしぼって図案を作成しました。ラベルには開拓使のシンボルマーク「五稜星」が描かれ、その下に「サッポロラガービール」と書かれています。

このラベルの図版原稿がいまものこっています。星を描くためにコンパスでひいた線や中心の針穴、鉛筆の下書きや、文字を修正した形跡などがそのままのこっていて、苦心のあとがうかがえます。(写真)

関係者を一喜一憂させながらも、「冷製札幌麦酒」はしだいに人びとに知られるようになっていきました。
入手に苦心したホップは、醸造所のそばに5500坪のホップ園が設けられ、そこに開業の翌年春、東京から米国種644株とドイツ種201株、翌11年にはさらに米国種6773株が移植され、順調に生育しました。12年には第1から第4まで、合計1万4265坪のホップ園がととのいました。ボーマーが栽培の指導にあたりました。
輸送も改善が加えられ、積出港だった小樽の埠頭そばの斜面を掘りこんで、直射日光があたらない保管場所をつくりました。
味や品質にたいする評判も高まっていきました。
13年には、醸造所が大幅に増築され、生産量は開業時の2倍にはねあがりました。

またこの年、開拓使は中川清兵衛がビール醸造を学んだドイツの醸造会社に札幌産ビールを送り品評を依頼しています。翌年になってから、ドイツから一通の書簡が届きました。
「冷製札幌麦酒はホップが少し過分だが、ともかく、やわらかなエールのような美味をおびた上製のビールである。また、ホップはアメリカ産によく似ていて、その品質も良好で、ドイツ産に比べても少しも劣るところはない」
品評の結果は上々でした。

14年、東京・上野で内国勧業博覧会が開かれました。
この博覧会は、全国のすぐれた産物や発明品を集めて展示し、広く人びとにアピールして産業の振興をはかろうと、大久保利通による殖産興業政策の目玉のひとつとして、10年にはじめて開かれました。第1回は出品点数8万以上、入場者数45万人という大盛況でした。2回目にあたるこの年の博覧会には82万3000人が入場し、出品点数は33万点にのぼりました。この博覧会に初めて出品された「冷製札幌麦酒」は、有功賞を受賞しています。

このころには、原料用の麦やホップもすべて北海道産でまかなえるようになっていました。ビール生産はいよいよ軌道に乗りはじめました。宣伝の効果もあってにわかに人気が高まり、売り切れが続出するほどでした。

そうしたさなかに、村橋は突然開拓使に辞表を出します。