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04天保生まれのサムライ

大久保利通、吉田松陰、山県有朋、木戸孝允、江藤新平、坂本龍馬、井上馨、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、中岡慎太郎、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、陸奥宗光…。

倒幕・維新に奔走した志士、それも超大物たちの名前です。
このうち、吉田松陰、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作、久坂玄瑞は、維新を間近にしながら世を去っていますが、その他の維新後に生き残った人たちは、明治新政府の中枢を担い、近代国家日本建設のキーマンとなりました。

幕末・維新史の大物、というのとは別の共通点が、これらの人びとにはあります。
じつは、全員が天保年間(1830~1844)の生まれなのです。
天保元年(1830)生まれの大久保利通から、同15年(途中から弘化に改元・1844)生まれの陸奥宗光まで、生年順に並べてみると、上記のようになります。幕末・維新期の大物の中で、天保年間生まれではない人物といえば、文政10年(1827)生まれの西郷隆盛くらいのものです。

それは、単なる偶然ではありません。
260年余にわたって続いた徳川幕府が倒れ、明治新政府が誕生した年(1868)、天保元年生まれの大久保利通は38歳。もし生きていれば、吉田松陰も同じく38歳、坂本龍馬は33歳、高杉晋作は28歳でした。維新を生き抜き、のちに内閣総理大臣になった伊藤博文は高杉の1歳下で、この時27歳、第2次伊藤内閣で外務大臣となった陸奥宗光は24歳でした。
倒幕・維新をなしとげたのは、“天保ジェネレーション”、30代のリーダーと20代の若者たちだったのです。

開拓使のキーマンたちも、天保年間生まれの人びとによって占められています。
長官の黒田清隆(天保11年生まれ)をはじめ、北大の前身、札幌農学校の初代校長を兼務し、開拓使廃止後の北海道三県一局時代には札幌県令(県令は現在の知事にあたる)をつとめた調所広丈(同11年)、同じく根室県令となった湯地定基(同14年)、函館県令の時任為基(同12年)、「屯田兵の父」と呼ばれ、のちに岩村通俊についで第2代北海道長官になった永山武四郎(同8年)といった人びとです。
のちに奈良県知事や帝室奈良博物館館長などを歴任した小牧昌業(同14年)や、開拓使官吏時代は樺太の事情通で知られ、開拓使廃止後は北海道炭砿鉄道社長となった堀基(同15年)も天保年間の生まれでした。

もう一つ、共通しているのは、彼らのすべてが薩摩出身者だという点です。
開拓使について語るとき、彼ら「南国生まれのサムライ」たちの存在を無視することはできません。
彼らにとって、明治初期の北海道は、日本の近代化を成しとげるための、壮大な実試場だったのです。

開拓使麦酒醸造所の建設・事業責任者、村橋久成も、“天保ジェネレーション”の一人でした。天保13年(1842)、薩摩に生まれたサムライ、それもとびきりの上級武士でした。

村橋が最初に歴史の舞台に登場するのは慶応元年(1865)、23歳の時のことでした。
この年、薩摩藩は15人の留学生と4人の使節をイギリスに送り込みました。