BEER STORY 開拓使麦酒醸造所ものがたり
05幕末の英国留学生
村橋が最初に歴史の舞台に登場するのは慶応元年(1865)、23歳の時のことでした。
この年、薩摩藩は15人の留学生と4人の使節をイギリスに送り込みました。
西欧への留学生派遣は、安政5年(1858)に急逝した藩主・島津斉彬の遺志でした。
幕末の名君といわれる斉彬は、「西欧の近代的な技術を学び、豊かな強い国をつくらなければ日本は列強の支配をまぬがれえない。いずれ支配され、植民地への道をたどることになるだろう」と考えていました。留学生の派遣はその一つの布石でした。
この構想が、五代友厚の建言によって、斉彬の死から7年を経てにわかに実現されることになりました。
この前年、薩摩藩はイギリスと対戦し、大きな痛手を被っていました。そのイギリスに学ぶべきだというのです。
イギリス人たちに「サツマ・スチューデント」と呼ばれた15名の留学生のうち、門閥から選ばれた若者の一人が、村橋久成でした。
鎖国下の幕末の海外留学。イギリスへの出国は国禁をおかしての密航です。幕府の目をくらますために、全員が変名で呼び合い、琉球出張の名目で鹿児島を発ちました。
留学生たちは、大英帝国が繁栄をきわめたビクトリア王朝時代のイギリスを体現しました。
「世界の工場」といわれた近代産業と、市民が選挙権を持つ社会がそこにはありました。ロンドンは人口300万人を超える世界一の近代都市でした。14年前にすでに第1回万国博覧会が開かれ、大量の鉄とガラスでつくられた巨大な建物が世界を驚嘆させました。街路にはガス燈がともり、地下鉄が走る近代都市でした。
ロンドン大学に学び、初めて見る西洋文明に、村橋は激しいカルチャーショックを受けました。それは、35年後の明治33年(1900)、ロンドンに留学中の夏目漱石が陥ったノイローゼもしくは鬱状態に似たものでした。あまりにも巨大で異質な文明にうちひしがれたのです。
当初2年間を予定していた留学を打ち切り、出国の翌年、村橋は帰国しました。
15人の留学生は、次のようなメンバーからなる。
氏名・(幕府の目をくらますための変名)・年齢・役職・*のちの氏名
町田 民部 (上野良太郎) |
28 | 開成所掛大目付学頭 | *町田 久成 |
---|---|---|---|
村橋 直衛 (橋 直輔) |
23 | 御小姓組番頭 | *村橋 久成 |
畠山丈之助 (杉浦 弘蔵) |
23 | 当番頭 | *畠山 義成 |
名越 平馬 (三笠政之介) |
21 | 当番頭 | |
市来勘十郎 (松村 淳蔵) |
24 | 奥御小姓。開成所諸生 | *松村 淳蔵 |
中村 博愛 (吉野清左衛門) |
25 | 医師 | |
田中 静洲 (朝倉 省吾) |
23 | 開成所句読師 | *朝倉 盛明 |
鮫島 尚信 (野田 仲平) |
21 | 開成所句読師 | |
吉田 巳二 (長井五百助) |
21 | 開成所句読師 | *吉田 清成 |
森 金之丞 (沢井 鉄馬) |
19 | 開成所諸生 | *森 有礼 |
東郷愛之進 (岩屋虎之助) |
23 | 開成所諸生 | |
町田申四郎 (塩田権之丞) |
19 | 開成所諸生 | |
町田 清蔵 (清水兼次郎) |
15 | 開成所諸生 | *町田清次郎 |
磯永 彦輔 (長沢 鼎) |
13 | 開成所諸生 | *長沢 鼎 |
高見 弥一 (松元 誠一) |
31 | 開成所諸生 |
そして、4人の外交使節がかれらに随行した。
新納 刑部 (石垣鋭之助) |
33 | 大目付御軍役日勤視察 | |
---|---|---|---|
松木 弘安 (出水 泉蔵) |
33 | 御船奉行 | *寺島 宗則 |
五代 才助 (関 研蔵) |
29 | 御船奉行 | *五代 友厚 |
堀 孝之 (高木 政次) |
21 | 英語通弁 |
それを実現にみちびいたのは、五代才助(友厚)だった。のちに大阪株式所や大阪商法会議所を創設し、初代会頭となって日本の近代商工業の礎を築いた人物だ。
薩英戦争のとき(1863年7月)、五代は、同志の松木弘安(寺島宗則。のちに外務大臣などをつとめ、外交の長老となる)とともに、意図的にイギリス軍の捕虜となった。攘夷思想にこりかたまっていた藩論の転換をはかろうとしたのである。
釈放後、各地を点々としながら潜伏していた五代は、翌年、長崎に姿をあらわした。
長崎で五代は、英国の商人、トーマス・グラバーと親交を深め、海外の情勢と、日本のおかれている状況を知る。おそらく二人は、長崎の港を出入りする船をみおろす丘のうえにあるグラバー邸で密会したにちがいない。
倒幕の工作者だったグラバーは、反幕府派の若くて聡明な人材を西洋に送りだし、見聞させることによって倒幕を加速できると考えていた。五代がグラバーに出会った前年には、すでに伊藤博文、井上馨ら五人の長州人を西欧に送り出していた。薩摩はライバルの長州に先をこされていたことになる。
「いまこそ欧米の先進諸国を広く実地見聞し、偏狭な世界観を刷新して藩のあたらしい方向性をみい出すべきときだ。長州に遅れをとってはならない」と痛感した五代は、イギリスへの留学生派遣を決意し、グラバーに協力をもちかけた。
グラバーは若き薩摩人たちを密かに出国させる段取りをつけるために上海に発ち、五代は藩に上申書を提出する。五代の建言はただちに藩に採用されることになる。
グラバーは、このとき26歳の若者だった。イギリス人の「天保ジェネレーション」だったのである。
留学生たちの、イギリス滞在中の最大のエポックのひとつが、イギリス到着から約1カ月後の7月29日、ロンドンから70キロほど北にある農業都市、ベッドフォードの鉄工所見学の旅だった。
「そこで見る物すべてに、彼らは興味を示した。人馬による農耕しか知らなかった彼らにとって、蒸気による自動鋤、刈取機などの農耕機械は、驚異以外の何物でもなかったのである」(犬塚孝明『薩摩藩英国留学生』)
ついでに、同書に紹介されている、1865年8月2日付けの『タイムズ』紙に掲載された「日本人のベッドフォード訪問」という記事を、翻訳文のまま引用する。ここにはロンドン留学のワンシーンが活写されている。
「英国の農業や工業の知識を習得するために、サツマ侯 (Prince Satsuma) から派遣された日本人の1団が、土曜日、ベッドフォードの英国製鉄所 (The Britannia Ironworks) を訪問した。ロンドン大学のウィリアムソン教授、グラスゴー大学の物理学教授、ほかに彼らの研究の指導にあたっている優秀な科学者たちが、彼らに同行していた。日本人たちは、体格が蒙古人そっくりで、人々の興味をひいたが、彼らは工場の諸機械及びさまざまの操作過程に非常な興味を示し、種々の細部にまで驚くほどすばやい理解を示した。彼らは、工場を大変離れがたい様子であった。しかし、最新式蒸気鋤の機関が動き出すと、およそ15名ほどの日本人たちは、地歩を占められる所ならどこへでも殺到して行った。どれほど大喜びで彼らがこの工場の広い敷地を縦横に動きまわったか、それはひどく楽しい光景であった。
ここで3時間を過ごした後、彼らはベッドフォード市長のジェームズ・ハワード (James Howard)氏と昼食を共にし、クラファム (Clapham) にあるハワード農園の蒸気鋤の見学に出かけた。彼らの驚きは頂点に達したように見えた。その操作が、考えていたよりもはるかに簡単であることがわかったのである。刈取機の操作も速やかに、しかも器用にこなした。引続き1行は、チャールズ・ハワード (Charles Haward) 氏の、有名な短角牛と羊を見学するためにバイデンハム (Bidenham) を訪れた。そこで市長と晩餐をとった後、ベッドフォード訪問が実に楽しかったことを述べ、英国人の親切なもてなしに感謝の意を表して、最終列車でロンドンへむかった」
幕末の海外留学が、現在の留学とはまるで次元のことなるものだったことは言うまでもない。みるもの聞くもの出会うもの、なにからなにまでまったく異質の、地球の裏側の世界の体験である。
あえてたとえるなら、地表を覆う大気をかいくぐって真空の宇宙空間に飛び出し、青く輝く地球を自分の目でみてふたたび地上に帰還した、こんにちの宇宙飛行士たちの体験にも似たものだったのではないだろうか。
留学生のひとり、森有礼は渡航に際してこんな句を詠んでいる。
宇宙周遊一笑中
「宇宙」とは、世界のことだ。
異国というよりも異次元世界にかれらは足を踏み入れたのだ。
幕末の「宇宙」航行者たちにとって、その渡航先はもちろん、母国はいったいどんなふうにみえたことだろう。
国禁を破っての海外への留学は、自己の肉体的な死を賭しての行為であった。と同時に、数百年間つづいた封建的な社会にうまれ育ったみずからのアイデンティティを根底からゆるがす、自己の破壊もしくは精神的な死の可能性をも、ともなうものだった。それまでの人生観や社会観、貧弱な世界観が一挙にくつがえされるような、究極の体験である。
実際、留学生のうち何人かは、帰国後、数奇な人生をたどっている。それまでのアイデンティティの崩壊と、まったくあたらしいもののみかたの萌芽がおこったのである。
しかも、村橋の渡英の状況は、以前から海外への渡航を夢みていた留学生とはわけがちがった。ふってわいたような話だった。欠員を補って急きょ選抜され、十分な心の準備もないままに世界につれ出されて、大英帝国が繁栄をきわめたヴィクトリア王朝時代の、成熟した近代イギリス社会をじかに体験したのだ。地下鉄が走る、パリ万博前夜のロンドンである。「世界の工場」といわれた近代産業と、市民が選挙権をもつ社会がそこにはあった。
衝撃はあまりにも大きかった。もともと感受性のするどい村橋が、激しいカルチャーショックをうけてふさぎこみ、「留学の続行が危険な状態」にまでおちいったことが、使節として同行した新納刑部の書簡などから明らかになっている。
村橋は、慶応2年3月、松木弘安とともにロンドンを発った。
2カ月かかって上海に着いた松木と村橋は、そこからイギリスの帆船に乗りかえた。
その船に、たまたま、ある人物が乗りあわせた。すぐれた実務家としての能力をかわれて、亀山社中(のちの海援隊)で坂本龍馬の右腕として働いていた紀州藩士・陸奥陽之助、のちに外務大臣となって対外交渉に天才的な手腕を発揮した、陸奥宗光である。
時代の潮流は大きく激しく変化していた。京都の小松帯刀の寓居で、西郷隆盛と桂小五郎とのあいだで6カ条の密約が交わされ薩長同盟が成立したのは、この年1月のことだった。3カ月前のことである。時代は、一気に倒幕・維新にむけて動きだす。留学生たちはそれを知らない。
仲介役の坂本龍馬の付添人としてこの同盟締結の現場に立ち会っていた陸奥は、すべてを知っていた。寺島と村橋に、陸奥はことのなりゆきを語ったにちがいない。留学中のわずか1年のあいだにおこった母国の状況の激変と、これからこの国におこることを、村橋は知った。
このときに知りあった陸奥と、村橋は11年後に札幌で再会することになる。そして再会からさらに16年後、外務大臣になったばかりの陸奥が村橋を弔うことになる。
駐日英国公使、ハリー・パークスが、グラバーの仲介によって鹿児島を訪問したのは、2人の帰国のわずか3週間後のことだった。西郷・小松らがパークスと重要な会談を重ねた。寺島は、対イギリス交渉担当者としてその場に列席した。会談をつうじて、生麦事件以来、イギリスと薩摩のあいだに横たわっていた不信感が氷解した。王政復古をめざすという方針についての暗黙の了解もなされた。このパークスの鹿児島訪問を機に、両者は急速に接近してゆくことになる。
7月、幕府と長州のあいだで戦闘が開始された。幕府は失態をあらわにする。グラバーをつうじて大量の新式の武器を入手していた長州藩によって、幕府軍は後退を余儀なくされた。パワーゲームの行き着く先はこのときすでにみえていた。
翌慶応3年10月、坂本龍馬がシナリオに描いたとおり、大政が奉還され、260年あまりつづいた徳川幕府の存立基盤がついに根底からくつがえされた。
村橋が英国に留学していた期間は、薩長同盟を折り返し点に、薩摩がこの国のゆくすえを支配した決定的な転換期だった。英国留学のゆえに、村橋が討幕運動で頭角をあらわすことはなかった。ほかの留学生たちもまた同じだった。幕末の動乱期に、母国を離脱して世界を体現したかれらは、幕末の志士たちとは一風ことなる、それぞれの人生をあゆんでゆくことになる。
トーマス・グラバー
当時、長崎には150人の外国人が在住し、その半数をイギリス人が占めていた。なかでもグラバーは、もっとも名を知られた西洋人のひとりだった。幕末の日本、とりわけ薩摩や長州にとっては最大の重要人物といってもいい。グラバーは、船舶や武器の調達経路を握っていたのである。
1838年、スコットランドにうまれ、19歳のときに上海にやってきて貿易のビジネス術を身につけたグラバーは、長崎が開港した安政6年(1859)に来日し、その2年後、グラバー商会を設立した。
開港と同時に、長崎は巨大な市場に変貌していた。グラバー商会は、東アジア最大の貿易商社、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店をつとめる。マセソン商会の強力な資金力を背景に、グラバーは、薩摩藩や長州藩など幕府に対立する西南諸藩に船舶や武器を売って巨額の利益をあげた。幕末期にグラバー商会が売った船は、20隻。長崎に輸入されたすべての船の3割を占めた。
五代がグラバーに出合ったとき(1864)、グラバーは26歳の若者だった。グラバーがイギリスに送った伊藤博文は23歳、井上馨は29歳だった。五代も29歳、坂本龍馬も同じ歳だった。倒幕・維新をなしとげたのは「維新の三傑」といわれる西郷隆盛(27歳)、大久保利通(34歳)、桂小五郎(31歳)ら30代のリーダーと、陸奥宗光(20歳)、黒田清隆(24歳)ら20代の若者たちだった。坂本龍馬や五代友厚は、その両者をつなぐ中間世代ということになる。そのかれらと、グラバーは同世代だったのである。
同じ世代のものどうしに通う時代的な気分とでもいうようなものがある。
グラバーは伊藤・井上ら長州の五人につづく「叛逆者の侍の第二団」(『トーマス・グラバー伝』アレキサンダー・マッケイ著、平岡緑訳)として、若き薩摩人たちを密かに出国させる段取りをつけるために上海に発ち、五代は薩摩藩家老・小松帯刀をつうじて、藩に上申書を提出する。小松はグラバーとは親しい間柄だった。藩は、海外への留学生派遣をただちに決定した。
グラバー邸
長崎随一の観光名所となっているグラバー園にある旧グラバー邸。日本でもっとも古い木造西洋建築物として保存されている文化財である。
この建物が建てられたのは文久3年(1863)のことだ。長崎に来て4年、グラバーのビジネスは軌道にのっていた。五代は前年に建てられたばかりのグラバー邸を訪れたにちがいない。
「おそらく二人は涼しい夕刻、グラバー邸のベランダで椅子に腰掛け、酒杯を干しながら計画を念入りに立てたであろう。眼下に広がる長崎港は、碇泊中の船内からもれる光や周囲の丘にまたたく灯火に明るく照らされていたであろう」(『トーマス・グラバー伝』アレキサンダー・マッケイ著、平岡緑訳)
二人が会った翌年(1865)には、西郷隆盛と坂本龍馬のあいだで、薩摩が藩の名義で長州のために武器を買う協定が成立した。武器のおもな購入先となったのが、グラバー商会だった。グラバー邸には、坂本龍馬や桂小五郎(木戸孝允)ら倒幕・維新のキーマンたちが足繁くかよった。この瀟洒なイギリス人の邸宅で、日本の将来を左右する重大な密談が交わされたのである。