BEER STORY

13麦酒醸造所のゆくえ

村橋と中川が心血をそそいだ「開拓使麦酒醸造所」は、開拓使の廃止後、複雑な足どりをたどっています。

明治15年、開拓使廃止と同時に、農商務省工務局所管となり、北海道事業管理局札幌工業事務所の管理下におかれて「札幌麦酒醸造場」と改称されました。
その後明治19年1月、新たに設立された北海道庁の所管となり、同年11月、民間に払い下げられました。
このころのビール工場の様子を紹介した新聞記事があります。

……当札幌にて有名なるものは麦酒工場にて、我々も望みを属するものはこの醸造所なり。……目下醸造高1000石、1ダース原価1円60銭なり。これを同所も飲み試むるに、その味之美なること敢えてストックホールに譲らず。

と賞賛しています。といっても、「醸造高1000石」はちょっとオーバーです。このころの実際の生産量はせいぜい500石でした。それでも、大びんに換算して28万本に相当します。文中の「ストックホール」はストックビールのことで、当時人気が高かった銘柄です。
いずれにしても、このころにはビール(工場)がすっかり札幌の名物になっていたのはたしかです。
ところが、大きな問題がおこっていました。
このころ、札幌産ビールは一時的に東京から姿を消していました。

しかれども惜しむべし、

とこの記事はつづきます。

いかなる化学的の変化にや、これを市に出して数月を経る時は、瓶底に滞を生じ、水飴のごとくなるの憂いあり。故にこれを遠地に輸送販売するを得ずして、おおむね札幌、小樽、函館等当地地方及び南部津軽辺にのみ売り捌くのみなりという。東京に見ざるなりはけだしこの故なり。しかれども主任者は目下その原因取調べ中なれば、遠からず精醸の方法を得るならんといえり。(明治19年9月11日付『東京日日新聞』)
製造後数カ月経つと、ビールが変質したため、札幌や小樽・函館、東北地方の一部では販売していましたが、東京へは出荷できずにいたのです。
「いかなる化学的の変化にや」とありますが、変化の原因は「化学的」なものではなく、生物学的なものでした。

パスツールによって、熱処理による科学的な殺菌法(パストリゼーション)が発見され、その技術がドイツで確立したのは、中川が日本に帰国した直後のことでした。中川は熱処理が殺菌に有効なことを知ってはいたにちがいありません。しかし、あくまでも自分がドイツで学んだビールの製法に忠実であろうとしたのでしょう。ドイツ仕込みの技術者としての誇りが、熱処理という方法をうけいれませんでした。
とはいえ、醸造量は飛躍的に増えています。中川の製法では、つくったすべてのビールの品質を一定に保つことはむずかしかったのにちがいありません。新聞記事から、中川の苦渋が伝わってきます。

明治21年、札幌麦酒会社が設立されたのちも、中川は醸造人としてビールをつくりつづけました。中川はあいかわらず非熱処理製法にこだわりました。しかし、札幌麦酒醸造場時代に道庁に雇われてやってきたドイツ人技師、マックス・ポールマンは、熱処理と、それによる品質の安定性を誇示しました。
ビールの醸造量は増えつづけ、やがて中川の技術の限界をこえました。中川は、24年2月、ついに札幌麦酒会社を退職しました。村橋によって開拓使に採用されたとき、27歳だった中川は、このとき43歳になっていました。

退職後、中川は小樽で旅館を経営し、静かに余生を送りました。
この世を去るとき、見守る家族に、末期の水の代わりにビールをもとめたといわれています。