BEER STORY

10明治のビール

醸造所の完成と、最初のビールの仕込みを見届けて、村橋は東京に転任しました。やがて札幌から届くはずの製品の受け入れ体勢を整えるために奔走しなければならなかったのです。

当時のビール事情は現在とは大きくことなっています。日本人のほとんどは、ビールを飲んだこともなければ、みたこともありません。ビールは外国人やごくかぎられた階層の高級な嗜好品でした。ちなみに、明治10年、最初にできたビールの払い下げ(販売)価格は、1ビン16銭、1ダースで1円60銭でした。いまの金額にすれば、1本3000円ほどにも相当します。それほど高価なものを買える人が当時の北海道にそういるわけがありません。つまり、ビールの市場が地場にはなかったのです。つくったビールのほとんどすべてを東京に送る必要がありました。

しかし、そのころ北海道から東京まで物を運ぶのは、いまでは想像もできないほど困難な作業でした。しかも、ビールは一種の生きものです。ビールを詰めるビンの確保からはじまって、輸送手段、冷蔵用の氷などあらゆる条件の整備が必要でした。道なき道を一歩一歩かき分けて進むようなものです。
ビンひとつとってみても、当時ビールビンの工場などあるはずもありません(札幌にビールビンの工場ができたのは明治33年のことです)。東京や、神戸・横浜・函館などの港町に外国人が持ちこんだビールやワインの使用済みのビンを再利用するしかありませんでした。開拓使は1本1銭ほどでかたっぱしからビンを買い集めました。

一方、札幌では中川が醸造に苦心していました。暖冬と、ドイツからとり寄せた酵母の品質がよくないため、発酵がおもうように進まないのです。
翌10年2月2日、札幌本庁の堀基から東京出張所の西村貞陽あてに至急電報が打たれています。

至急山梨の醸造所へ館員を出張させて注文させ、質のよき種(酵母)5斗を(雑菌のない)よき樽に詰めて至急送るべし

村橋は、今度は酵母入手のために奔走します。
失敗するわけにはいきません。醸造所の建設地を東京から札幌へと変更させたのは自分です。だからこそ、どんなことがあっても成功させなければなりません。
半月後の2月17日、村橋は札幌本庁の佐藤秀顕から電報を受けとります。

過日報知せし麦酒、昨日より盛んにわきはじめたり。安心せよ。委細は上局へ報知競せり

「ビールが発酵しはじめたので安心せよ」というものでした。
ちなみに、初年度のビールの生産量は、250石の生産能力にたいして100石(18kl)、大ビンに換算しておよそ2万5000本分でした。フル生産こそできませんでしたが、品質はほんものでした。日本ではじめての本格的なビール産業の誕生です。開拓使設置から7年。あたらしい近代的な産業が芽をふきました。

「冷製札幌麦酒」と名づけられた札幌産のビールがはじめて東京に到着したのは、10年6月のことでした。
開拓使の成果であるビールの到着を、長官の黒田清隆は待ち焦がれていました。黒田はさっそく、三条実美をはじめ、西南戦争のため京都の臨時本営で総指揮をとっていた大久保利通ら政府首脳にビールを届けさせました。開拓使の成果を、ここぞとばかりに披露したかったのです。
12本入り1箱のビールには、黒田の指示でそれぞれ次のような概略書が添えられていました。

一、醸造用の麦は米国種を培養し収穫せしものを用ゆ。
一、醸法はベルリン「チボリティ」醸造所において麦酒醸造の免許を得し中川清兵衛なるもの、これを醸造す。
一、通常、舶載のイギリスビールの急激なるものと異なり、その味、冷淡なるを以って英語でこれを冷製麦酒、あるいは日耳曼麦酒と称す。

ところが、いちばん肝心の内務卿・大久保利通に送られたビールは、12本とも、ビンのなかに一滴のビールものこっていませんでした。黒田は大恥をかくはめになりました。面子まるつぶれです。

当時は王冠などありません。買い集めたビンは不揃いで、口径もまちまちでした。コルクで閉栓したものの、とり付けがしっかりしていないために、長旅のあいだに内圧によってコルクが抜け、中身が噴き出してしまっていたのです。
京都本営から開拓使東京出張所に至急電報が入りました。

過日御回しの麦酒、コロップ取り付けかた不十分なるゆえ、内務卿(大久保)へ送りたる分、12本とも噴き出し、1滴ものこりなし。その他も多く噴き出したり。はなはだ不都合なり。村橋へ厳達、以後のところ注意されよ。

「村橋へ厳達」と、ここで村橋が名指しにされていることからも、村橋がビール醸造にいかに大きな責任を負っていたかがわかります。