BEER STORY

12開拓使の挫折

西南戦争をさかいに、開拓使をとりまく状況は一変していました。
この戦争に費やした膨大な戦費が、もともと苦しかった明治政府の財政を一気に疲弊させました。
明治13年(1880)、政府は負債の利子だけで国庫収入の3割をこえるという深刻な財政危機に見舞われていました。しかも、年間収入の3倍近い1億5000万円もの不換紙幣を乱発していたのです。

財政的な要因ばかりではありません。
西南戦争が終結した翌年の明治11年5月、参議兼内務卿として新政府の権力を掌握し、殖産興業政策としての北海道開拓事業のバックボーンとなってきた大久保利通が、登庁途中、石川県士族・島田一郎ら6人の刺客に襲われて斬殺されました。
神にも近い存在として崇拝していた西郷をうしない、ついに大久保までうしなった長官・黒田清隆の失意は、はかりしれないものがありました。

逆風にさらに追い打ちをかけるように、北海道官有物払い下げ問題が巻きおこります。
村橋が開拓使を去ったのは、この空前のスキャンダルが巻きおこる直前の14年5月のことでした。
村橋はすべてを知っていました。
この月、払い下げ物件の報告が黒田に命じられました。開拓使の廃止の事実上の最終通告です。
その結果公表された払い下げ物件は、
東京は、村橋がいた函崎物産取扱所や、官舎をはじめ、倉庫とそれらの地所。玄武丸、函館丸など開拓使が所有する輸送船六隻。大阪は、貸付所所属の官舎・倉庫・地所。函館は、船場町の地所と、固定備倉および地所。小樽は、収税庫とその敷地。ほかに根室別海缶詰所。厚岸缶詰所。択捉ラッコ漁所と牧馬場などでした。
はたして札幌は……。
札幌牧羊場、真駒内牧羊場、葎草園、桑園と蚕室、葡萄園、そして、麦酒醸造所がふくまれていました。

翌六月には、東京出張所が廃止されます。東京出張所廃止のあとは、札幌本庁への勤務が待っていました。しかし、翌年には開拓使そのものが廃止になるのです。
「同じことだ」と村橋はおもいました。
村橋にとってはなによりも、開拓使の廃止そのものがゆるせませんでした。
いまやっと芽吹いたあたらしい産業の芽を、なぜ摘みとり放棄するのか。こころざしは、どこへいってしまったのか。倒幕・維新、そして開拓とあたらしい国づくりにささげられてきた無数の命は、いったいなんだったのか。なんのための開拓使だったのか。
村橋は激しい怒りをぶつけて開拓使を辞職します。

こうして村橋は開拓使を去り、やがて歴史の舞台から姿を消しました。
いつしか村橋は、雲水のような身なりに姿を変えて各地を行脚していました。雲水とは、行く雲、流れる水のように、道をもとめて諸国を遍歴する僧のことです。
故郷を捨て、家族を捨て、いっさいの自分を捨て去って、病身をかかえたままこの国をさまよい、開拓使辞職から11年後の明治25年、神戸の路上で病に行き倒れているのを発見され、その3日後に息を引き取りました