BEER STORY

08ビール醸造に必要なもの

札幌産ビール誕生のもうひとりのキーマンが登場します。ドイツでビール醸造を学んだ中川清兵衛という人物です。
中川は嘉永元年(1848)、新潟にうまれました。慶応元年、村橋らがイギリスに渡ったその年、横浜の外人商館に勤めていた17歳の少年、中川清兵衛もまた密出国して渡英していました。
明治五年ころ、中川はドイツに移りました。正式な留学生ではありません。学問もこれといった技術もない中川は、ドイツ人家庭の家僕として働いていました。
じつは、その中川清兵衛をみいだし、ビール醸造を学ぶようにすすめて必要な資金を援助し、黒田に紹介したのも青木周蔵でした。

8年、中川が10年ぶりに帰国したときには、青木の紹介で開拓使麦酒醸造所の醸造技師になることがすでに決まっていました。
この年の夏、開拓使東京出張所に姿をみせた中川に採用辞令を手渡したのは、勧業課長の村橋でした。このときの採用にあたっての確認書の実物がのこっています。文面には何度も手が加えられたあとがあり、「契約途中で退職するのはまかりならない」という一項があります。高給を払い醸造人として雇うからには成功にむけて邁進せよ。一歩も後には引かせない、という村橋の激しい意気ごみが伝わってきます。
村橋久成は33歳、中川清兵衛は28歳でした。事業責任者と醸造人の二人三脚がはじまりました。
中川は醸造所の設計とビール醸造に必要な資材の調達、村橋は適地の選定から建築資材の手配、原料の入手、建設費の確保、人員の雇用や配置などに奔走しました。
そのほとんどは東京や横浜で手に入れたり、つくらせたりできましたが、ホップと酵母はこの時点では輸入するしかありませんでした。
それ以外にも、東京や横浜では入手しにくく、海外から輸入するわけにもいかないものがありました。
大量の氷です。

中川がビール醸造を学んだドイツでは、麦汁を摂氏10度以下に冷やして発酵させる下面発酵(または低温発酵)とよばれる方法が用いられていました。発酵が進むとともに酵母が槽の底に沈殿するところから、「下面発酵」と呼ばれました。それにたいし、常温の発酵では酵母は液面に浮上します。これを「上面発酵」または「高温発酵」といいます。イギリスなどではこの方法でビールがつくられました。

中川が学んだドイツ式の醸造法でビールをつくるには、冷温が不可欠だったのです。冷却には大量の天然氷が必要でした。ドイツでも、ビールをつくるためには、冬のあいだに従業員を総動員してあちこちの川や湖から氷を切り出し、運んで貯蔵しなければなりませんでした。暖冬になればもっと寒い地方まで足を運ばなければなりません。また、例年より暑い夏にそなえて、常に余分に氷を蓄える必要がありました。暖冬と暑い夏こそ、醸造技師の最大の悩みのたねでした。

中川からビール醸造についてのさまざまな話を聞くうちに、村橋は、氷と冷涼な気候こそビール醸造の成否の決定的なカギを握っていることを認識しました。
村橋は留学生時代にロンドンの冬を体験しています。それは、出身地の鹿児島はもちろん、東京ともかけ離れたものでした。箱館戦争ではじめて北海道の土を踏み、開拓使に入って以来、七重の官園や札幌の本庁に勤めてきた村橋は、北海道の気候をよく知っていました。北海道は気候条件もイギリスやドイツなどのビール生産国によく似ています。

「とにかく、氷がないことには成功の見通しはたたない。ドイツ仕込みの中川にビールをつくらせるには、東京ではだめだ。開拓使の決定がどうあろうと、この事業を成功させるためには、醸造所は北海道につくるべきだ」

そしてついに村橋は、東京の官園への麦酒醸造所建設、という開拓使の決定事項をくつがえすことを決意したのでした。